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昭和に抗った新人類〜1988年の新入社員研修〜

私が就職したのは昭和63年(1988)。
平成になる前の年だから、まさに昭和最後の新入社員である。

世はバブル景気真っ只中。高卒で何の取柄も資格も専門知識もなかったが、就職先には困らなかった。当時の女子の憧れの職業は、デパートのエレベーターガールや企業の受付嬢、トレンディーなハウスマヌカンなど、、、憧れとは読んで字のごとく童心なのである。学校には求人票が山と積まれ、私はその中からカーディーラーを選んだ。ハイレグのレースクイーンはさすがに恐れ多いが受付嬢くらいなら私でもなれるであろうと高を括った。しかし、落ちた。

憧れるのをやめましょう。現実はそう甘くはないという意味で。
原因はおそらく高校3年間の欠席日数が14日あったこと。面接で「どうして14日も休んだんですか?」と聞かれても何も思い当たらず、「さぁ…テスト勉強とかで風邪をひいたりしたのかも…」などと曖昧な答え方をした。3年間で14日って多いのか??決して体が弱いわけではなかったが、部活動が文化部だったのもマイナス点だったと思う。スポーツやってる子、休まず皆勤賞の子のほうが勤勉なイメージがあって昭和のおじさんには刺さるのだ。

かたちから入る

職員室に行って「先生~、面接で落ちました~どうしよう・・・」と泣きべそをかいたところ、「よーし、先生の知り合いの人に頼んでみるから待ってろ!」と甘やかされた。「先生それ何の会社ですか~?」と聞くと、結婚式の仕事だという。何だか知らんが先生に言われるがまま試験を受けることになった。

結婚式か。また面接で落ちないようにと自分なりに対策を練る。そうだ、明るい表情になるようにビューラーでまつ毛をカールさせよう!文化部だってネクラじゃないし元気なのだ! 

結果、合格した。まぎれもなく先生のコネ+まつ毛カールのおかげだ。あとおそらくだけど(すべて憶測でしかない)親戚が多かったことも勝因だろう。面接で兄弟や親戚のことを聞かれたからね。ほら、親戚が多いと結婚式いっぱい取れそうってことで。

かくして寝ぼけ眼にまつ毛だけ上向きの子の就職が決まった。
学校では就職する女子生徒を募って、化粧品メーカー主催のメイク教室が開かれた。社会人の身だしなみとして『はじめてのお化粧レッスン』で美容部員さんからメイクのいろはを学ぶという、突っ込みどころ満載な昭和の催しであった。おかげでまつ毛以外も整い、社会人らしい見た目に手っ取り早く変身したのである。

すぐに見破られる

即席で体裁は整ったものの中身は空っぽである。受け入れる会社サイドにしてみれば、ぽかんとした未成年の面倒を見るのはさぞかし大変だったことだろう。今となればその気持ちは痛いほどわかる。なにしろ部活や習い事の延長みたいなテンションで来るものだから、業務うんぬんというよりもまずは社会人としての心構えから言葉遣い、所作といった初歩から教えねばならない。

今でもそりゃビジネスマナー講座とかあるし、そういう面倒くさい基本的なことは外部講師を招いて研修するだろう。現代では固定電話が怖いという若者も多いそうで、恥をかく前に手取り足取り教えておいたほうが賢明だ。なんせ何でも検索で解決するこの時代でも仕事に限っては「聞いてません。教えてもらってません」などと言われかねない。(愚痴か)

しかし昭和の新人研修は一味も二味も違う。
主な目的は学生時代の甘ったれた考えを一新し、社会人たる心構えを持つこと。そこには業務に役立ちそうな具体的なノウハウは、無い。
『一体これに何の意味があるのか』などと疑問を持ってはいけない。気合と根性、精神論で強硬突破だ。

京都の道場に行く

私が就職したのは結婚式場だ。4月からは繁忙期で新人に構っている暇はないため、3月初めに入社式をするとすぐさま研修が始まる。猫の手よりはマシにして繁忙期に備えたいのだ。

最初の研修地は京都で3泊4日だった。
ちょうど高校の卒業式の日と重なり、泣く泣く卒業式を欠席するしかなかった。今みたいにスマホもSNSもない昭和の卒業式がどれだけ一大事かお分かりだろうか。友とのお別れ度が桁違いなのだ。しかし入社してしまった以上、私の所属先はもはや学校ではない。

・・・ヤバいところに来てしまったと思った。
到着するなり作務衣に着替え、頭から手ぬぐいをかぶり座禅がはじまった。先生は「この会社には毎年卒業生が入っているから安心だ」と言っていたけど本当に大丈夫なのだろうか。息を殺してじっと正座する。
ふと見ると同行していた上司が誰よりも居眠りして肩をビシッとやられている。そんなことだから毎年研修に同行させられるのだ。


3月の京都は寒い。板の間の正座はお尻も足も痛いが、それよりも私はお腹がぐ~っと鳴っていた。『ご飯まだかな~』しかし修行の食事が豪華なはずがない。白飯とみそ汁を黙って食べ、食べ終わったご飯茶碗にお湯を注いでたくあんでよく洗って飲めという。正座の足が痺れそそくさと完食である。

翌朝も超早起きで掃除とか、もう帰りたい。
うちに帰ってゴロゴロしたい。
あ~今ごろ家族はテレビ見ながらトーストにジャム塗ってるんだろうな。。。

「今日はこれから外に出かけます」

それは噂に聞いていたトイレ掃除の修行であった。
見ず知らずの家をひとりで訪問し「トイレを掃除させていただけませんか」と聞き、許可されれば掃除をさせていただくというものだ。
いやいやいや、手ぬぐい被った怪しい人がピンポンしてきて、そんな変なこと言われたら絶対に断る!人の家のトイレを掃除することも嫌だったが、それ以前の問題ではないか。一歩間違えば通報レベルだ。

しかしここの近所の人は心得ていて、また来たかといった具合で受け入れてくださり、無事ミッションクリアとなった。

*
ホッとしたのもつかの間、その次の日もお出かけ修行であった。
今度は何か家の手伝いをして、あわよくばお昼ご飯をご馳走になって来いというのだ。帰って来てもお昼ご飯は無いので、賄いがないと夜まで腹ペコとなる。

嫌だ、行きたくない。こんな恰好で町に出るとか恥ずかしいし寒いし物乞いなんてしたくないしもう本当に帰りたい。
あ~今頃、同級生のみんなは卒業式で第二ボタンくださいとかやってるんだろうな。。。

だが行かない選択肢はなく、私はより受け入れてもらえそうな(ご飯にありつけそうな)所は無いかと彷徨い歩き、個人宅ではなくコンビニのようなお店に行き掃除をさせていただいた。

「ご奉仕させていただきありがとうございました…」それで…あの……とうるうるの目で訴えかけると、お店の従業員さんが自腹でお弁当をおごってくれた。なんて親切な人なんだと感心こそすれ、不思議なもので、やりたくない事をやり遂げても達成感は得られないものだと知る。

*
最後の日は一転して、京都一の高級ホテルに宿泊した。
講習などではなく、ただ単に客として滞在し一流のサービスを体験するというものだった。道場での修行があまりに辛かったため、まるで災害救助された人のような感覚に陥り、唯々ありがたみが骨身にしみた。ホテルの設備やサービスは素晴らしかったと思うが、布団が暖かかったこと以外何も覚えていない。

体育会系講師現る

京都から帰ってくると、今度は山あいの研修施設での合宿だ。噂に聞いていた通り、クセがすごい名物講師が登場した。
「オレは毎朝イッポン〇〇だ!」と、う〇ちが常に長くて太い1本であることを声高に自慢していたが、笑う所なのか驚く所なのか誰にもわからない。

ここでも業務に役立ちそうな具体的なノウハウは一切無い。
声出し、マラソン、社訓の暗記、社歌の練習、、、何の意味もないなどと異を唱えようものなら「やり直ーし!もう1周追加!」と言われるに違いないのである。

この手のド根性研修はなにも我々だけではなかった。同じタイミングで研修を行っていた地元の他社は、まだ雪の残る3月の湖にふんどし姿で入るという伝統行事的なミッションがあってテレビの取材カメラが入っていた。いやはや心の底から同情すると同時に、今まで何気なく利用していたお店(ラーメン店)の従業員さんたちが皆このような厳しい研修をしていたのかと思うと頭が下がる思いである。

我々はその頃、背中に定規を当てられて、90度のお辞儀のレッスン中であった。背筋を伸ばしたまま股関節から直角に折り、顎を引いてお尻を突き出す。声出しで培った1㎞先まで聞こえるような大声で「いらっしゃいませ!」と叫んでからこの90度お辞儀をするのだ。

「腹から声出せー!イッポン〇〇だー!」「やり直ーし!」と何度も何度も繰り返すスパルタ式、さながらスポ根アニメの主人公の如く、皆泣きながらOKが出るまで繰り返した。

そんなこんなで同期の子たちとは寝食を共にし励まし合って仲良くなった。これから県内のあちこちに配属になる数十人の友と根性を鍛える研修をしたにもかかわらず、というか、だからこそというか、1年後には約半数が退社することは最初から見込まれ、ちょっと多めに採用するという経費の無駄使いをしてもよい時代であった。

現場の洗礼を受ける

ところで、なぜこれほどまでに熱血ド根性研修が盛んだったかといえば、我々は『しらけ世代』『新人類』と揶揄されていたからである。
〝今時の若い者〟にはいつの時代もあだ名がつけられる。記憶に新しい所では『ゆとり世代』『さとり世代』など。我々はバブルの真っ只中でハングリー精神ゼロの無気力・無関心・無感動と定義された。

まじめなんてダサイ。勉強も仕事もダルい。

好景気の活気に溢れた職場で〝24時間戦っている〟諸先輩方から見たら、砂糖を入れたぬるま湯に浸かりふやけた顔をしていたに違いない。

さて、クセすご講師のド根性研修が終わり会社に戻った我々は、会長へ報告に行った。そこで研修の成果を披露するということで、全員で声を張り上げ「いらっしゃいませっ!!!」と90度のお辞儀をしてみせた。
すると会長は「そんなに大きな声ではお客様がびっくりするだろう、笑顔で笑顔で」と笑うではないか。

そんなことは最初からわかっとるわい!あの講師にギャラなんぼ払っとんねん!

会長の目の前で、接客を想定した笑顔の「いらっしゃいませ」の練習が始まる。どうやらこのくだりまでがセットになっているらしい。ここからやっと、業務に役立つ実践的な研修となった。先輩社員による冠婚葬祭の知識の座学や、一流ホテルの講師によるサービスの基本、テーブルクロスの掛け方やスープのサーブの仕方などの具体的な内容にホッと胸をなでおろしたのであった。

*
しかし油断してはならない。ある日突然マイクロバスに乗せられると「新人類諸君、これからローラーにいくぞ!」ん?ローラーとは?

それは地域のお宅を一軒一軒回って、会員募集をするというアポ無し訪問販売セールスであった。

一口3000円/月、10年満期で、結婚式やお葬式で使える様々な特典がある冠婚葬祭互助会会員。互助会募集にはノルマがあって、1か月3本取ると会長賞、6本取るとダブル会長賞というご褒美があった。「今月の会長賞はタケノコです!」「今月は金のネックレスです!」と毎月賞品が変わった。キャンペーン期間ともなれば12本で海外旅行という月もあった。やはり怪しい会社なのか?と警戒しつつも昭和では普通によくある鼻先人参システムなのであった。

ちなみに私は面接での読み通り、親戚の多さが功を奏し、太めの18金ネックレスをゲットした。余談だが最近そのネックレスは母親が金買取専門店に持ち込み3万円になったと喜んでいた。

*
わけもわからず乗ったマイクロバスはすでに動き出していた。1人づつ名前を呼ばれ、途中でバスを降ろされる。そこから地図を片手に1軒1軒ピンポン訪問だ。

京都のトイレ掃除修行はこのためだったのか。「ごめんください」と訪問し営業をするが、急に来た新入社員のおぼつかない説明で契約が取れるはずはない。端からローラーに成果は期待しない、ただの度胸試しの洗礼なのだ。

だがビギナーズラックというのはあるものだ。ろくに説明もできない若造でもたまたま契約が取れてしまうことがある。一緒に行った同期の男子が余計な成果を上げてしまい、社内は驚きと称賛の嵐となった。

まったくもって余計なのである。かくしてこの『進め!電波少年』のような無茶振り営業は、定期的に行われることになる。

今でも忘れることが出来ない最悪のローラーは、年末の吹雪の中、来年のカレンダーを山ほど持ち、家もまばらな農村でバスを降ろされるという過酷なものだった。

嗚呼、カレンダーを田んぼに捨てて今すぐ帰りたい。しかしバスが迎えに来るまで帰る手段がない。これは拉致か拷問か意地悪か、ブラック確定の鬼の所業に、さすがに訪問先でも同情され、家に上がりお茶を出されメソメソ泣くという始末だった。


年が明けてまもなく天皇陛下が崩御された。国旗を掲げるポールの金色の玉を黒い布で覆い、国旗を低い位置に留める『半旗』を初めて見た。仕事は休みになった。昭和が終わった。

新人類が遺したもの

スパルタ研修の賜物か否か、これまで何とか誤魔化しながらやってきた我々もそろそろ限界である。毎日うちでゴロゴロしたい。

♪東京タワーで昔
見かけたみやげ物に
張り付いてた言葉は
『努力』と『根性』

Hey Hey Hey Girl!仕事だから とりあえずがんばりましょう
Hey Hey Hey Boy!かっこ悪い 毎日をがんばりましょう

「がんばりましょう」SMAP

我々と同世代のSMAP『がんばりましょう』
昭和の残像がチラつく平成6年、1994年の歌である。

その昔叩き込まれた努力と根性という価値観は、ダルいけどとりあえず頑張るかって時にちょっとだけ有効だ。何の意味もないと思っていた昭和の研修も決して無駄ではなかったと今ではわかる。博多華丸さんの言う通り、「酒のチャンポンと親の意見はあとから効いてくる」のである。感謝。

……とはいえ程々ということを知らなかった昭和の先輩方。
会社のために身を粉にして24時間働いたド根性信者を上司に持ち、だがしかし権力に屈することなく『しらける』という平和的手法で我々は抗った。
今般の働き方改革の礎となるのは、紛れもなく新人類の無気力だ。

我々の勇気ある行動は、後の世に週休二日制を定着させ、ゆとりこそ大切という価値観を生んだ。新人類は『無理に頑張らない代表』として多大なる功績を残した。

今でも研修室の片隅にはうさぎ跳びの足跡が刻まれ、当時の被害を語り継ぐことで、ブラック企業の抑制に人知れず寄与し続けている。


しらんけど。


#創作大賞2024 #エッセイ部門


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