ランダムの美学
車を買う時、自分の好きなナンバーを指定することができるらしい。
走る車のナンバーを見て、この車の持ち主はどんな人なのか、と勝手に想像している。
誕生日や記念日をはじめ、
パチンコ好きか【777】
銀河鉄道?【999】
新婚夫婦の【1122】
ニコニコ家族【2525】わんわん肉好き【1129】
縁起を担いで【358】
佐藤さん【310】
後藤さん【510】
斉藤さん【3110】etc.
夫の家族は皆、実家の電話番号の下4桁で統一していた。兄弟3人同じナンバーである。
しかし私はナンバーを指定したことは無い。
クレジットカードの暗証番号など忘れちゃいけない数字は、忘れない工夫として語呂合わせも良いが、車のナンバーは忘れてもそんなに困らない。(と思う)
それでも意味を持たせるのはちょっとした遊び心だろうが、逆に何の意味も持たないランダムなナンバーにするのも、自分にまつわる数字が新たに加わる楽しさがあり乙なものだ。
街中を走っていて同じナンバーの車に出会うことは皆無に等しく、そのオンリーワン感も個人的に大好物なのである。
偶然です
それに、サラッとさりげないのがCOOL&SEXYではないか。そんな細かなことは気にせず、涼しい顔で「番号はこれなのね。了解」とスルリとかわしたい。だから敢えてのランダムナンバーだ。So Cool!
それなのにうちの母は娘の車のナンバーを覚えようとするあまり語呂を考えだした。いい国作ろう鎌倉幕府方式だ。すると偶然にもガーデンウェディングに注力していた私にピッタリの【良い庭】という上手い語呂を思いついてしまったのだ。ハズイ。偶然でも恥ずかしいし、指定したと誤解されるのも恥ずかしいではないか。良い庭ナンバー車でガーデンに行くのかと思うと居たたまれない。
母のおかげで私はいま猛烈にナンバーを変えたい、いっそ車ごと変えたい衝動に駆られている。陸運局にわざわざ行ってランダムなナンバーに変更する人などいるのだろうか。そもそもそれはランダムと言えるのだろうか。。
ランダムな人
【ランダム】という言葉を辞書で引くと、なんとも魅力的なワードが並ぶ。
たまたま偶然、行き当たりばったり、着の身着のまま風の吹くまま自由に生きている。理由などない。そんな「ランダムな人」いるよねー。ななななー ななななー ランダム フリーダム!
自分勝手なわがままに振り回されるのは迷惑だが、なぜか憎めない。それが「ランダムな人」だ。なぜ憎めないのかというと、まさに【無作為】わざとではなく天然だから。
時に「この人なんにも考えてないんじゃね?」と思うほど全く悪気がない。実際、彼らの口癖は「考えすぎだよ」そう言ってはぐらかすが深読みは無用だ。好むと好まざるとに拘わらずそれ以上でも以下でもない。(村上春樹か)
要するに単純で裏表がない。しかも何も考えてないくせに大きな失敗もしない。もしくは失敗だと気づいていない可能性もある。どっちにしても気にしない。彼らの背中には「考えるな。感じろ」と書いてあるに違いない。しらんけど。
無作為を装う
ありの~ままの~♪という歌が流行った頃からだろうか。結婚式の演出は「何もしたくない」という人が増えてきた。ピンスポとスモークの中、ホイットニー・ヒューストンの「エンダ~イ♪」でケーキ入刀の時代はとっくに終わっているが、今ではケーキ入刀自体もしたくない。司会者の「新郎新婦ご入場です!」も恥ずかしいし、お涙頂戴も勘弁だし、芝居がかったサプライズも要らない。「盛大な拍手を!」と無理に煽ったりもしない。
とにかくわざとらしくないもの、きっかけの削除、作り込まない、境目のあやふやなもの、自然にナチュラルに、、、
しかし本当に何もしないわけではない。
わざとらしくない、気づかれないほど自然な流れ、サプライズ演出とハプニングの境目がわからないリアル感、そのようなものを作る。ありのままを装おう。
無造作にまとめた髪に風が吹いた瞬間のようなヘアスタイル、野の花をぎゅっと束ねたようなクラッチブーケ、生クリームが今にも溶けそうなネイキッドケーキ、ポーズ写真よりシーン写真。素敵だねー!その状態キープするの難題だけど。
進行も、ふたりのタイミングでドアを開けて入ってきたらBGMを切って逆に無音にする。司会者は補足程度で、どこを歩いてもいいし、放っておけば行く先々で拍手がウェイブのように沸く。ずれた間の悪さも、それも君のタイミングゥ~♪なのだ。
ふいんき
バブルを知る昭和世代にとっては、THE披露宴の「きっかけ、はいドーーーン!」も、スカッとして鳥肌が立ちテンション爆上がりする。それはまるで麻薬のような代物で、一度やったらやめられないパワーがある。
だが、おぼつかなく雲をつかむようなランダムも魅力的だ。ディレクターは「何もしてませんよ」とでもいうかのように涼しい顔をして会場の端っこにいる。1/fゆらぎのα波でリラックス的な、雰囲気ではなくふいんきが、きっと今の時代に合っているのかもしれない。
多様性の令和、無作為を装うまるでランダムアートのような不可解な演出が、そこかしこに隠れているかもしれない。隠れミッキーをわざと忍ばせていても、その事には一切触れずに宴は終わるのだ。
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