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3年前、私たちは狂った世界に足を踏み入れようとしていた

その頃ユウカたちの働いているお店では、バレンタインイベントが終わり、一息ついたところだった。

「これで年末からずっと続いていたイベントラッシュもこれで終わりですね」

「そんなことないわよ。来月はホワイトデーイベントもあるし」

「ホワイトデーイベント? 何するんですか?」

「お客さんにきてもらって、ボトル開けてもらうわよ」

「それ、いつもと同じじゃないですか。じゃあその後は?」

「そうね、4月だからお花見イベントかしら。イベントが終われば、また次のイベントがくる。同じことを繰り返すことに意味があるのよ。そうだ、私の誕生日も近いしね」

「え、アキさん星座なんですか?」

「水瓶座よ」

「あぁ、どうりで。笑」


そんな他愛もない話をしていたとき、スタッフルームにMariちゃんが入ってきた。

「アキさん今、変な病気が流行っているみたいで。聞きました?」

「知らない。私ニュースみないから」

「なんか大陸の方で、急に流行り出したらしいですよ」

「そうなんだ。なんか嫌ね。まぁ、伝染されないように気をつけないとね」

「うち、けっこう大陸帰りからのお客さんもいるし」

「そうね……。その病気って、けっこう人が死ぬの?」

「いや、まだわかんないです。ただ、テレビとかは毎日ニュースでやってます」

「教えてくれてありがとう、Mariちゃん。お店でなんかできることって特にないし、大陸から帰ってきたお客さんを締め出すってことをやりたい?」

「いや、それも微妙かな」

「そうね、まぁ考えとくわ」

Mariちゃんは帰り支度をして、スタッフルームを去っていった。

「なんでしょうね、変な病気って。エイズみたいなやつとか?」

「エイズねぇ。ねぇ、全人類がエイズにかかったとしたら、もうそれって病気と言われなくなるのかしら? 誰にでも盲腸があるように。それって人類の特徴みたいになるのかしら。人間はいつか死ぬじゃない。昨日までピンピンしてた人が急に今日死ぬこともめずらしいことじゃない」

「えぇ、嫌ですよ、エイズ。寿命が確実に縮まっちゃいますから」

「そお? でもみんないつか死ぬじゃない。昨日までピンピンしていた人が今日死ぬなんて珍しいことじゃないわ」

「それはそうですけど……」

「人間はね、30過ぎたら、どんな風に死を受け入れるか、ってことも考えながら生きなきゃダメよ」

ユウカはなんで急にアキがそんなことを言うのか疑問に思ったけれど、「はい」と小さく答えただけで、それ以上は訊けなかった。

実は病気の話題もこの時しただけで、あと2週間ほどはいつもどおりの日常が過ぎていった。

なんであの時、アキが急に「どうやって死を迎えるのか?」なんて話をした理由は、あとになってわかるのだけれど、その頃の私は呑気に毎日お酒を飲んで過ごしていた。

世間の空気が変わったと感じたのは、あるコメディアンがこの病気によって亡くなったという報道があってからだ。

彼が亡くなる少し前から、夜の街クラスターなんて言葉も囁かれて、なんだか客足も遠のいていたような気がしていた。

この先一体、どうなっちゃうんだろう。

人によっては、大流行すると言うし、人によっては、きっと食い止まるなんて希望的楽観論をみんな口々に噂していた。

きっと、アメリカ映画なら、どっかの名もなきヒーローが、自分の身を挺して人類を助ける、なんてストーリーがあるかもしれないんだけれど、恐れていたことが、実際に起きてしまうのが、現実の世界のような気もしていた。


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