緊急事態宣言が明けてー記号に支配される人々ー

画像1

2021年10月1日(金)、約半年ぶりに緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が全面解除された。

同10月2日(土)、緊急事態宣言が解除されて初めての週末に、私は池袋に足を運び、サンシャインシティ二階のポケモンセンターメガトウキョーに向かった。そしてそこにいる溢れんばかりの人の数に驚かされた。ポケモンセンター内は人と接触せずに歩くのが不可能なほどに人が集まり、レジにはディズニーランドのアトラクションを思わせる長蛇の列ができていた(実際には30分程度でレジについたのでディズニーは言い過ぎだが、そう思えるほどの視覚的インパクトがあった)。私が店を出るころには入店制限がかけられ、店の外にも行列ができていた。

ポケモンセンターで買い物を終え、次にジュンク堂池袋本店へと向かった。サンシャインシティとジュンク堂を結ぶ線の上には南池袋公園という、よく手入れされた芝生がきれいな広い公園がある。そこがどのような状況にあるのか気になって立ち寄ってみると、案の定人であふれていた。遊具の周りには子どもとその親だろう人々が所せましと群がり、芝生の上には5,6人のグループがコロナ禍以前の花見で見られたように点在し、コンビニで買った酒を酌み交わしているグループも少なくなく、まだ陽の高い真昼間だと言うのに顔を赤くして大声で騒ぐものたちも見られた。

ジュンク堂には緊急事態宣言下にもたびたび訪れていたのだが、緊急事態宣言明けのジュンク堂は宣言下に比べて明らかに人の数が増えていた。体感で宣言下の二倍の人数はいたように思える。

私の手元に正確なデータがないが、これらの経験から私は以下の二つのことが言えると思う。第一に緊急事態宣言の発令は確かに人流を抑制していたということ。第二に緊急事態宣言が終わったのだから、それまではステイホームで飲酒も我慢していたが、外に出て酒を飲むことがいいと思っている人がかなりの人数で確かに存在しているということである。

さて、ここでこの二つのことを考えるためにドイツの哲学者であるテオドール・アドルノ(1903~1969)とマックス・ホルクハイマー(1895~1973)の共著である『啓蒙の弁証法』(1947)に書かれた「すでに神話が啓蒙である」という言葉を紹介したい。この言葉の持つ意味を具体的にそれを説明している部分を同書よりいくつか引用する。

「啓蒙によって犠牲にされた様々な神話は、それ自体すでに、啓蒙自身が造り出したものであった。(中略)神話とは、報告し、名づけ、起源を言おうとするものであった。しかしそれとともに神話は、叙述し、確認し、説明を与えようとした。」

「オリュンポスの神々は、もはや直接に諸原素と同一なのではない。神々は諸原素の意味を表している。ホメーロスにおいても、ゼウスは白日の天の長であるし、アポローンは太陽を操縦し、へーリオスとエーオスはすでに譬喩的な意味をおびている。」

「神話は啓蒙へと移行し、自然はたんなる客体となる。人間は、自己の力の増大をはかるために、彼らが力を行使するものからの疎外という対価を支払う。啓蒙が事物に対する態度は、独裁者が人間に対するのと変るところはない。独裁者が人間を識るのは、彼が人間を操作することができるかぎりである。科学者が事物を識るのは、彼がそれらを製作することができるかぎりである。それによって即自的な事物は、彼にとって対自的なものとなる。この転換のうちで、事物の本質はいつも、不変の同一のもの、支配の基体としてあらわになる。」

哲学書なので難解な記述が多い、もう少し具体的にかみ砕いてみよう。

雷を例に考える。かつての人々にとって雷とは全く未知のものであり、それは大雨の中、突然空から降ってきて、山火事を起こしたり、時には人が直接雷に打たれて焼け死ぬこともあった。人々にとって雷は自分の人生に突然影響を及ぼす恐ろしいものだった。

そのような出来事を体験する中で人々は雷に理由をつけようと試みた。それこそが神話である。例えばギリシア神話のゼウスは雷神とされ、ゼウスによって雷は落とされると説明される。そうすることによって人々の雷に対する認識を即自的なものから対自的なものへ変えた。つまり雷を自分の外にある、他者が起こす現象として認識するようになったのだ。

これは現代、雷を科学によって説明することで、実際に人が雷を自由にコントロールできるわけではないにも関わらず、その現象に恐怖を覚えない程度の距離を取っているのと変わらない。論証の過程が確からしいか否かという違いがあるだけで、自分ではどうしようもない現象を、説明すること(未知を既知に変えること)によって、自分にコントロール可能なものと錯覚する、という点は神話も啓蒙も変わらないということだ。

この論考の中でアドルノとホルクハイマーは、統一された世界観の話の集積としての神話と個別のものとして存在する呪術を、体系化されているか否かで区別し、神話の体系こそが啓蒙につながると言う。しかしここには疑問が生じる。それは呪術(体系化される以前のもの)に啓蒙のファクターがないと言い切れるのだろうか、という疑問である。

前述した、未知を既知に変えることによってアンコントローラブルなものをコントローラブルなものに変えるという行い、を啓蒙の重要なファクターであるとするならば、呪術の中にも啓蒙の萌芽が見られるのではないだろうか。アニミズム的精霊やデーモン、トーテムと言った概念はすでに未知のものを既知のものに変えるという仕事を果たしているように思えるからだ。

さらに大胆に言えば呪術以前、具体的には言語活動の発展期にある名づけるという行為の中にも啓蒙の芽をみつけることができはしないか。つまりある現象に名前を付けることによって、その現象を即自的な事柄を対自的なものへと変えていると言えないだろうか。

雷の例に戻ろう。大雨の中で突然光が降り注ぎ、山火事が起きたり、打たれた動物が焼け死ぬという状況は即自的なカオスとして認識される。しかし降り注いだ光を「雷」と名付けると、その瞬間に「雷」は自分とは外部の存在として認知され、それらの現象は対自的な整理されたものとして認識することができるようになる。つまり山火事を起こしたのは「雷」が原因だと説明することができるようになる。そして啓蒙の重要なファクターが説明することであるとするならば「すでに名づけることが啓蒙である」と言えるのではないだろうか、ということだ。

さて、この先の文章で私は「名づけること」をコロナ禍の現状に引き付けて考察を行っていく。そこでもう少し深く「名づけること」とはどういうことなのか考えてみよう。

「名づけること」は言語活動の発展期にあると書いた。それは具体的にどういうことなのか、ソシュールの「記号学」の中にその答えを見出したい。

ソシュールによれば、言語記号は、意味する(signifiant)/意味される(signifie)という二つの関係性の面から成り立っている。

「雷」は「ka-mi-na-ri」という音からイメージが呼び起こされる。この記号の音声の側面をソシュールは「音響イメージ」であるとして、言語記号を構成するシニフィアン(意味するもの)と呼ぶ。

他方、「雷」が内包している「雲から突如降り注ぐ光」としてのイメージ、このような記号の「概念」の側面をソシュールはシニフィエ(意味されるもの)と呼んだ。

「ka-mi-na-ri」と言う「音響イメージ」は「雲から突如降り注ぐ光」という「概念」を導き、その逆もまたしかりである。そしてその「音響イメージ」と「概念」は「雷」という言語記号によって繋がっている。言語記号はシニフィアンとシニフィエの二つが不可分の関係を保つものなのである。

ここまでの前提知識を胸に、また例に戻ろう。人は、大雨の中で突然光が降り注ぎ、山火事が起きたり、打たれた動物が焼け死ぬという状況から降り注いだ光を雷と名付けた。

ここには二つの行為がほとんど同時に行われている。一つは一連の出来事の中から「降り注いだ光」という一部分を概念として切り取る作業。もう一つはその切り取った「降り注いだ光」という概念に「雷」と名前をつける作業(「ka-mi-na-ri」という音声をつける作業)である。

言語記号は「概念」と「音声イメージ」の二つの関係性を持つものであり、「名づける」時に行われる作業は「概念」と「音声イメージ」を関連付けさせるものだった。そう、「名づけること」とは記号を作ること、記号化することに他ならない。

ここまでの考察から三の最後に記した言葉を更新し、こう言い換えよう。

「すでに記号化が啓蒙である」

かなり回り道をしたが、本題に入ろう。今回の緊急事態宣言解除で人がどれだけ記号に支配されているかが明らかになったと言える。どういうことか。

私たちは、2020年1月に新種のウイルスに出会った。新種ということはつまり全くデータのない未知のウイルスだということだ。そして未知のウイルスに対する反応として、世界中が未知の状況、ロックダウンをはじめとした移動の制限、に陥った。

日本においても2020年4月には緊急事態宣言が発令され、夜の東京から人の姿が消えた。人のいない渋谷のスクランブル交差点の写真はSNSで拡散され、それは人々に鮮烈な印象を与えた。

そしてこのとき、おそらく多くの人が誤った啓蒙をされた。つまり街から人が消えるという未知の状況を説明する言葉として緊急事態宣言が理解された。「緊急事態宣言」という言葉は、人のいない街、不要不急の外出を控える状況を記号化したものとして理解されてしまったのだ。

元来、緊急事態宣言とは新規感染者数の増加や医療機関の逼迫具合が危険な状況にあることを示す言葉であり、外に出ないことを強制する言葉ではない。飲食店に酒類の提供を禁止する言葉でもない。しかし人々には本来の意味とは異なる意味内容でその言葉は理解されてしまった。

だからこそ、人々は「緊急事態宣言」が終わったから、一斉に外に出て三密を回避することも怠り、外に出て公園で酒を飲んだ。ウイルスは変わらずそこにあり、その危険は何ら変わっていないというのに、堰を切ったように煩わしい感染対策を捨て、禁止されている(「緊急事態宣言」が示す「概念」だと)思い込んでいたことを、感染リスクの高い方法で再開した。(感染対策の徹底された飲食店での飲酒より、肩が触れるような距離で芝生の上に並び飲む酒の方が感染リスクは高いように思える)

このことから、アンコントローラブルな現象をコントローラブルと錯覚させるために行われた記号化という営みが、人を支配していることに気づく。

私たちはまだウイルスを駆逐したわけでもなければ、我が国のコロナ用病床数に余裕が生まれたわけでもない。多くの人々がワクチンを接種したとはいえ、新規感染者数がゼロになるわけでもない。

それにもかかわらず、人々はそんなウイルスなどもう存在しないというように活動を活発化させていくだろう。なぜならもう「緊急事態宣言」下ではないのだから。

複雑さを嫌う人々は「緊急事態宣言」下なら外に出てはいけないし、感染症対策を徹底しなければならない。逆に「緊急事態宣言」下でなければ、無制限に移動していいし、感染症対策などマスク程度でいい。そういう単純な構図に惹かれてしまう。

一番最初に述べた二つのこと、第一に緊急事態宣言の発令は確かに人流を抑制していたということ。第二に緊急事態宣言が終わったのだから、それまではステイホームで飲酒も我慢していたが、外に出て酒を飲むことがいいと思っている人がそれもかなりの人数で確かに存在しているということ。

これら二つは、ひとつの記号のスイッチがオンになるかオフになるかで行動を変える人が確かに、それもかなり多くの人数でいるということを示唆している。

人々は記号に支配されていく。理解不能な宙づりの状態を理解する言葉を求め、啓蒙され、そして本質的に大切なものから目を背け(あるいは意図的に背けさせられ)、記号上のゲームに没頭することになる。

そういう社会は私にとってディストピアである。しかしそのような状況を打破するための方法を私はまだ持ちえない。

参考文献

ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法――哲学的断想』(2007)徳永恂訳,岩波書店.

石田英敬『記号論講義――日常生活批判のためのレッスン』(2020)ちくま書房.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?