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大雨の中、自由を叫ぶように笑った

バケツをひっくり返したような土砂降りの雨の中を、自転車で走り抜けたことはあるだろうか。

雨の中を行くと聞くと、私は映画『雨に唄えば』や『ショーシャンクの空に』を思い出す。
たとえば『雨に唄えば』は主人公のドンがキャシーとのひとときの喜びを、傘もささずにあらわした歌とダンスシーンが有名だろう。(いつかあんな格好をしてあんな事やってみたいなんて思っていた)

まだどちらの映画も見たことのなかった幼い頃。
私は母と兄と、大雨の中を自転車で駆け抜けたことがある。

その日は母と兄と自転車で少し遠出をしていた。
どこに行ったかは覚えていないのに、降り注ぐ大雨の中をみんなで大笑いしながら自転車で駆け抜けたことは覚えているのだから不思議だ。
何がそんなに楽しかったんだっけ。ふとそんなことを思った私は当時のことを少し思い出すことにした。

私たちは、用事を終えて、もう後は家に帰るだけ。
「雨すごいね、このまま帰っちゃおうか」
止みそうにない雨空を見上げて、いたずらに成功したみたいな声で母が言った。普通なら、風邪もひくし止むまで待とうかだとか、今日は自転車は諦めて危ないし歩いて帰ろうか、なんて言葉が出てくるはずだけど、なんだかその日は全員、このどしゃ降りの中自転車に乗るという選択をした。

大きなカゴのついた母の自転車、補助輪が取れて少し遠くまで行けるようになった私の自転車、私のより少しかっこいい青い兄の自転車が道路を走り抜けてゆく。

ペダルに足をかけ、ぐんと力を込めて雨の中に入ると、水が小さな魚のように全身を打ち付けた。あっという間に髪も、服も、靴も、何もかもがびっしょりとずぶ濡れになってゆく。
どんどんとペダルを踏み込んでは、打ち付ける雨に濡れる顔を、時たま腕で拭う。

ふっと何だか笑いがこみ上げてきた。
もうどうにでもなるだろうという気持ちと、どちらにしてもびしょ濡れだというやけくそさ。
そしてこんな状況に、なんだか笑いがこみ上げていた。

自由を感じた。
何にも縛られない自由なのか。
大切な人と飾らずに居れる自由なのか。
わからないけれど、びしょ濡れになりながら私たちは笑いあっていた。


自分がほんとうの意味で、のびのびと好きなことをできる環境というのは、きっと自分でしか作ることができない。誰かの助けはもちろんいるけど、結局は自分がどう在るか決めるのは自分自身だと思う。

どこにいたって、どんな仕事をしていたって、自分がどう在りたいかを私は考えていたい。私は、やさしく在りたい、本当はもっとしっかりしたい、芯の在る人でいたい、穏やかな海のような人でありたい、何か些細なことを見つけることができる人でいたい、まっすぐでいたい。誰かに言われたんじゃなくて、それが私の選んだことだから。そういうのを積み重ねてゆきたい。
随分身勝手な、自己中なことだと思うけれど、でもそうやって選択して過ごして、きっと今の自分ができている。誰だってそうだと思う。

あの雨の日みたいに、自由を感じる瞬間がまだこの先の人生であるように生きていたい。私は、ささやかにそう願っている。

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