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異国の風|ショートストーリー

麻のシャツは風通しが良く、この国で過ごすにはとても重宝していた。
執筆活動の最中、気分でも変えようかと1ヶ月前から借りているアジア圏の首都から少し離れた街のこの部屋は、大通りから入り組んだ路地を抜けて辿り着くお世辞にも綺麗とは言い難いアパートの一室だった。
前の持ち主の趣味なのか、窓際にはたくさんの観葉植物が風で葉を揺らしている。壁は所々剥がれ、どこか懐かしい燻んだ色合いのタイルで彩られており、灯りはどこか心許ない。路地裏にあるからか、街の喧騒はどこか遠くの出来事のように聞こえ、もっぱら食事は大通りにある屋台で済ましていた。

今日も薄暗いこの部屋で、ここ最近行き詰まっていた執筆を進めていた私は、ふと、どこからか聞こえてくる何か音…だろうか、おそらく弦楽器で静かに囁くように紡がれるその曲に、気がつくと耳を澄ませていた。
冷めてしまったお茶を少しずつ飲み干し、息をゆっくりと吐く。
その曲は、どこか懐かしい望郷のようなものを感じさせた。
誰が弾いているか、どこから聞こえるか、という事よりも、今こうしてこの曲に耳を傾けていることの方が私には大切なことのように感じた。

立て付けの悪い窓をゆっくりと開けると、異国の風が頬を撫で、観葉植物の葉を揺らしてゆくと共に、その曲は終わりを告げた。
体の横を通り過ぎてゆく生暖かな微風と、異国の香りを深呼吸して吸い込むと、またあの曲が静かに、まるで風のように流れ始めた。この音の聞こえ方は、おそらく同じアパートの誰かだろう。

私は窓際まで小さな椅子を運び、冷めたお茶を飲みながら、その音に聞き入り、そうしてまたひとつ息を吐いた。

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気がつくと居眠りをしてしまったのか、壁にもたれかかっていた頭を起こし凝り固まった首をぐるりと回す。壁掛け時計を確認すると、時計の針は真夜中を指しており、件の曲も終わり、時折路地の道で自転車を漕ぐ音や、密やかな話し声などが聞こえている。あの曲はもう聞くことができないのだろうか、近所に曲を嗜んでいる人物はおらず、おそらく今日たまたまこの辺りに宿泊しているお金のない旅行客なんかが弾いていたのだろう。

店じまい前に何か屋台で食料を調達してこよう。私は、鍵と財布をポッケに捩じ込み、立て付けの悪い玄関を開け、薄暗いアパートの階段を降りる。
街灯も切れかかっているアパート前の路地には、誰もいない。
私は先程の曲に、と心ばかりの小銭と「心地の良い曲だった、またぜひ」という書き置きをアパートの花壇の淵に置き、大通りに出ることにした。

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買い物を手早く済ませ、戻ってきた頃にはその書き置きも小銭も無くなっていた、が代わりにチケットが1枚、私の玄関に挟まっていた。近所の食堂でどうやら開かれているささやかな演奏会のようだ、裏返すとそこにはこんな言葉が書いてあった。
「こんばんは、そしてありがとう。今晩このアパートの一室を借りていた者です。実はあなたと入れ違いで、また次の場所に行かなくてはならないので、お聞かせすることができません。けれどまたどこかでお会いできればと思います」私はそのチケットをポッケに捩じ込み、気がつくと荷物をまとめ、部屋を引き払っていた。

いつまでも同じ場所にいるのも性に合わない、異国の音を頼りに、また風のように動いてみよう。私は荷物を持ち、玄関の扉を閉め、手で弄んでいた古びた鍵をポストへと落とした。

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