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 僕はコーヒーが嫌いだった。

 小学校三年生くらいのころだったかな、仲がよかった友だちのおばあちゃんにこう言われた。コーヒーは大人の飲みものだから子どもは飲んだらいけんとよ。日が落ちて薄暗くなりはじめた田舎の台所で言われ、なんだかちょっと怖かった記憶がある。その言葉は小さかった僕のこころの奥深くまで届いたようで、結果的には30歳も手前になるくらいまでその言いつけを守った。

 ふつうはここから、どうしてコーヒーを飲むようになったのか、おもしろいエピソードのひとつでも書きたいものなのだが、どうもよく覚えていない。いつのころからか、幼なじみのおばあちゃんの掟をやぶって、コーヒーを飲むようになっていた。僕の記憶には残っていない、ある特別な体験を経てオトナの階段をのぼったのかもしれないが、真相はいまだ闇のなかだ。

 そうして僕はコーヒーが嫌いではなくなった。しかしだからと言って、好きというわけでもなく仕事がら著者やクライアントさんとの打ち合わせのとき、とりあえずコーヒーで、的なはんぶん惰性の要素が含まれていたことは否定できない。

 それじゃあ、いまはどうなのか?

 僕はコーヒーが好きだ。

 昨年末からはコーヒー豆から買ってきて、手動のコーヒーミルを使ってガリガリと豆を挽く。丁寧にゆっくりとハンドルを回すから腕も疲れる。その横で鍋にいい水を入れて沸かし、わざわざお湯の出る先が細いポットのようなものに沸騰してすぐのお湯を移しかえる。豆が砕かれた粉に円を描きながらお湯を注ぐ。注ぎすぎず少なすぎ、早すぎず遅すぎず、僕はできる限り注意深くなる。コーヒー粉が水分を含んでふくらみ香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。透明だったお湯はコーヒー粉をくぐってなめらかな茶色の水滴となって、ポタリポタリとお気に入りのティーカップに落ちる。湯気立ついっぱいのコーヒーが完成して、飲む人の手元へそっと運ぶ。

 僕が淹れるコーヒーが意外にも人気を博していて。お正月に義理の父と母に出したら、「なにこれ、すごい美味しい!」感動とも呼べるテンションで言われた。娘の育児のため妻の実家で過ごしているが、特に義理の母がなかなかの熱狂的なファンとなり、わざわざコーヒーセットを持ち込んで毎晩のように淹れている。

 自宅で家族写真を撮影してもらった幡野広志さんにもコーヒーを淹れてお出しした。するとお礼のメールにこんな文面が添えられていた。

 末吉さんにいただいたコーヒーの影響で、さいきんまた豆から挽くようになりました。いまもひいたコーヒーを飲んでいます。人ってどこで影響をうけるかわからないし、どこで影響をあたえているかわからないものですよね。

 ほんとうにおっしゃる通りである。いわばコーヒー初心者であり、もちろんプロでもない僕が淹れるコーヒーが美味しいと言われさらに、ほんのちょっとでもこころを動かしている。そして、思った。

 コーヒーを淹れるのと、文章を書くことは似ている。

 インスタントでサクッとではなく、時間をかけれて淹れればやっぱり味が出てくる。そしてそこには技術だけではない要素、こころを込める、みたいなものもはたらくと思うのだ。どちらも目に見えるものではない。だから、論理的に説明できる類のものではないかもしれない。しかしたしかに、そういったものがはたらくと思うのだ。

 このことに着想を得て、毎日書いているnoteに加えて定期購読マガジンとして、いままでよりも時間をかけた文章を毎週1回のペースでお届けしていこうと考えました。より長めのエッセイや短編小説、本を書くつもりで書く原稿、対談コンテンツとその秘話、など、いろんな味の文章を工夫してお出しします。ピンときたらぜひご購読ください。

ご来店お待ちしております。

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