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記憶に残り方はえらべない。

レイモンド・カーヴァーの全集『大聖堂』に収められている「羽根」という作品を読み終えた。読み返したのは何度目になるだろう。再読であったとしてもいつも新鮮な気持ちで読める、好きな短編小説だ。もちろん話の筋自体がおもしろいのだけれど、もっとも記憶に残るものが別のところにある。

作品の登場人物であるアメリカの田舎町に住む家族が飼っている孔雀ジョーイ。その尾には虹の七色が一つひとつ綺麗に表れている。孔雀を見たことがない主人公たちは「なんてこった」と言葉を失う。そうしてジョーイは鳴く。「メイオー、メイオー!」

鳴き方の意外性だけではなく人間に負けず劣らずのクセの強いあり方を含めて、読み終えたあとに残るジョーイの存在感がすごくて。頭の奥のほうのどこか一箇所に居座ってくるのだ。時どき「メイオオオ」と鳴きながら。孔雀に対する誤った認識を持ってしまいそうなのが心配だけれども。。

人の記憶って不思議なもので。こういう「どうでもいいこと」( というのもおかしいか… ) とか「ささいなこと」のほうが記憶に残ったりする。そういえば僕の記憶のなかにいる父は、爪楊枝をよくくわえていたなぁとかね。それも噛みすぎてボロボロになっていることが多かったなぁなんてこととか。

あと、記憶に残すって、あんがい狙ってやるのがむずかしいと思う。人為的やら作為的なものより、自然とにじみ出ちゃったりしているもののほうが記憶に残る可能性が高いと感じている。( もちろん、ブランディングみたいなことはまた別物だと思うけれども )

そういう意味では、こういうこともあった。僕のnoteやツイッターは読んでくれていたけれど、「初めまして」の人と話をしたときのこと。「末吉さんって、もっと神経質な人だと思ってました」と言われた。なにやらきっと、僕の文章のささいな表現から、その方の頭のなかではそんな認識になっていたのだろうなぁと。個人的にはそういう意識はなかったので、「へー、そうなんだ」と新鮮な驚きだった。

小手先のテクニックではなく、ありのままに生きたり、創作したりしよう。誰かの記憶にどう残るかなんて、最終的にはえらべないのだから。

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