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世間様でなく「私」が人生の主人公

朝ドラ「虎に翼」。
不実な夫、冷淡な姑、自分勝手なこどもたちに尽くし続けた女性(梅子さん)が、最後に「もう白旗を挙げる!私の負け。みんな好きに生きればいい」と言い切って、婚家を飛び出す場面があった。

信じていたものを手放し、新しい一歩を踏み出す。『人形の家』のノラや、『風と共に去りぬ』のレット・バトラーなど、「今までどうしてこんなものに固執していたのか不思議だ」と、対象から去る場面は多い。

私にとっての「固執」は、世間様だった。多くの人がそうであるように。

思いやり深く、皆と仲良くできる良い子に育ち、きちんとした職場に勤め、社会的地位のある男性と結婚し、子どもは2人以上育て、自らのキャリア形成も怠らず、社会と積極的にかかわり豊かな人脈と教養を身に着け、介護もこなし、70歳近くまで勤労し、不足しがちな年金を圧迫せず、自らの健康管理にも気を配り、なるべくピンピンコロリで逝ってくれ。その際は孤独死しないように、家族や近隣とのつながりを密にしておくこと。

世間様のいうとおりに生きている人たちも多いが、私にはほとんど無理である。また、その必要もない。世間様のいうことはそれこそ、「虎に翼」の理不尽な婚家のように、スカーレット・オハラのように理不尽で身勝手なものだからだ。ただ、尽くしているうちは、そのおかしさ、奇天烈さには気づかないものなのだ。

梅子さんやノラやレット・バトラーが家を出る時、そこを憎まずに距離を置いたように、私も世間様を憎んだり忌避しているわけではない。
ただ、もう尽くすのはやめようと思っただけ。

悩み相談をみても、殆どは「私」がどうしたいか…ではなく「世間様の求める自分」になれないので苦しい、というものであるように感じる。

家族や同僚や友人や…その他の人間関係に受容してもらうため、魂を殺す行為を延々繰り返せば、当然病む。

「私」を主語にして行動するようにしたら、非常に楽になった。ただし自分が少数派なのはわかっている。圧倒的多数の「世間様教の信者さん」たちを否定する気はない。

昔は好きだった小説やドラマ、人生相談、他人様の雑談の妙味に、殆ど面白みを感じなくなったのは、根底にあるのが世間様視点だからだろう。

まったく、人間関係のアレコレに殆ど関心がなくなっている。
これでいいのかと感じつつ、もう不要な苦労も努力もしたくないし、他人様の領域を侵さず、自分の快適を優先に生きていければ上等だよねと思っている。


「世間様」が見ているから、ある程度の秩序が保たれている面もある。
しかし、その力が過ぎればやはり毒になる。

すべてほどほど。用法・用量をわきまえて、文月も適量主義でいこう。

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