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自分の大切は、他者から観たら塵芥

5/3は語呂合わせで、ごみの日。そうじの日らしい。

今朝はオーブントースターが故障した。ちょうど最後のパンを食した後だったので幸運だった。
パンは太りやすいし、一枚に小梅ひとつ程度の塩分も含まれている。今年から血圧が上昇気味で服薬を始め、塩分を控えるように医師の指導を受けているものの、「朝はパン派」をやめられなかった。いい機会だから、パンからもち麦ご飯に切り替えよう。

粗大ごみの申し込みを済ませ、家の中の片づけをする。GWは特に出かける予定はない。混雑する時期はなるべく引きこもると決めている。

モノにあまり執着はないが、普段使っているモノにはそこそこの愛着もあるし、利便性も感じている。しかし片づけをしつつ思う。この室内で私が大事に思う殆どのモノは、他者にとってはゴミのようなものだ。仮に私が永眠したとして、此岸の人間がもらって嬉しいのは現金か金目のものくらいだろう(家に換金できるようなものは、ほぼない)。

殆どの人間がそうであるように、私も自分の身体を大事にしている。数百億円積まれても、肉体の一部(例えば、眼球や腕等)を手放す気はない。
だが、それは当人に限っての「大事」である。

誰もが羨むような美貌の持ち主の「顔の皮」を欲しいとは思わないし、Aさんが一番大事にしている家族を「伴侶・子・ペット」すべて漏れなく譲り受けたいとは思わないし、誰かの寝具や日用品を欲しいとも思わない。

その人にとっての大切は、概ね他者にとっては塵芥。
「人は死んだらゴミになる」という文言をはじめて聞いた時は、随分ひどいと感じたものだが、今は確かにそうだなと思う。

その人の大事にしていたものは、当人にのみ価値があるのだ。

逆に言えば「他人からみて、羨ましがられ、憧れられ、欲しがられるものをたくさん所有しよう。承認欲求が満たされる生き方こそ幸福」という幻想は追い求めなくていい。
自分にとって大事なモノを慈しめばいいだけなのだ。

これを「自分さえ良ければいいのか」と共同意識を盾に絡むひともいるが、自分の身体の快適さは自分で守るもので、他人に理解してもらうものではない――といえばわかるだろうか。

だから私は、他者が何を収集しようと、執着しようと、手放そうと、(他人の領域を侵さない限り)それはその人の自由だと思う。


身近にあるモノは、私にとってのみ快適な代物。
でも、それでいいのだ。

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