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親への悪意

私は才能と呼べるほどに勉強が出来ませんでした。
小学校に入学する前からオンライン教材で勉強しておりましたが、本当に頭が悪かったために毎日のように酷く叱られておりました。
オンライン教材で勉強していた内容がどんなものだったのか忘れましたが、おそらく小学校の先取りや補填的な学習内容だったことでしょう。
親からすれば、「わからない」と躓く要素すらもない超基礎的な内容だったと思います。私の馬鹿さ加減に耐えられなかったのか、私が勉強するたびに激昂し、鉛筆を折り、教材を引き裂き、怒鳴りました。私はそれが怖くて怖くてたまりませんでした。

小学校四年生に上がる前、私は塾に通うことになりました。目的は中学受験です。10歳になって突然賢くなるなどあり得ないので、馬鹿なままの私は怒られる機会が増えたなと思っていました。案の定、倍増しました。
別に不真面目だったわけではありません。かといって真面目ではありませんでした。塾は苦痛の塊でしたので、他人の数倍の努力をしていたわけではありません。宿題はやるけど、といった具合でした。
他人の数倍は努力してやっと他人の足元に届く程度だったので、永遠に私はドベでした。週に一度テストがあり月に一度それより規模の大きいテストがあったのですが、毎回私が最下位で友人にもよく馬鹿にされました。悪意を持って馬鹿にされたわけではありませんし、虐められたこともありません。ですが、どうにも漂ってしまう「○○さんはいつも最下位」という雰囲気があり、これが恐ろしいほど苦痛だったのです。
テストのペース的に週に一回、月に五回は親にこっぴどく叱られました。「なぜこんなのも出来ないのか」のような侮辱的な怒号、あとはビンタなど、塾が関係あったのか記憶が怪しいですが真冬に家を放り出されるなどもありました。自分にとって勉強は恐怖以外の何物でもありませんでした。怒られるたびに「もうやめていいよ」「嫌なんだろ?」「辞めてしまえ」と言われました。その度に「続けさせてください」と思ってもいないことを号泣しながら言いました。泣きながら親の足にしがみつきました。「じゃあ頑張ろうな」となって、両親は塾の先生に追加の特別授業をお願いするなどして私の勉強時間を増やしました。ですが私の成績は伸びませんでした。

偏差値2以内の変動はありました。43が45に上がると、50まであと5だと褒められました。運よく50に乗った日にはそれはもう酷く喜ばれ抱き寄せられました。成績が伸びれば(最下位は固定)、塾の帰り道にコンビニでおやつを買ってもらえました。飴と鞭がしっかりしてたように思います。成績が悪い時の、親の怒り狂った顔、悲しそうな顔、辛そうな顔、そして最後に申し訳なさそうな顔。散り散りになって舞い落ちる成績表。それが脳裏によぎる中で抱きしめられました。それでも私は、嬉しくて堪らなかった記憶があります。

そんなこんなで中学受験を迎えました。勿論第一志望には掠りもせず、第二志望の私立中学に通うことになりました。成績開示に行ったのですが、第一志望に関しては掠りもしないどころかもはや記念受験とも言えない点数でした。合格発表は母親といき、成績開示は父親と見に行きました。校門を通り看板で不合格を確認するその直前まで母親は希望に溢れたキラキラした笑顔で歩いていました。成績開示で馬鹿げた点数を見て、父親は沈黙しました。本当に黙り込みました。それらの両親の表情が忘れられません。
中学に入学して以降、二年ほどは「だからお前は受験に失敗した」的な叱責を週に最低三回は受けたと思います。毎日のように怒られた記憶だけがあります。いつもの数倍のエネルギーで怒鳴られた週は、その一回だけの叱責になりました。怒るにもエネルギーがいるんだと言われた記憶があります。

時間を飛ばして高校二年、私は諦念をあらわにしました。親に自殺してやると言いました。
進学クラスにいたのですが、自分はやはり勉強が出来ませんでした。このクラスにいて勉強ができないとなると、邪魔者になると思っていました。みんなのことは本当に愛していたので、みんなの邪魔になるのだけは避けたかったのです。家にいても理解者も助けてくれる人も受け入れてくれる人もいませんでした。居場所が無かったのです。自分には死しか無いと本気で思っていました。辛いとは微塵も思っておらず、いたって綺麗な感情で死を受け入れていました。死ぬのが怖いとも思っていませんでした。頭の中には、「やっと逃げられる」しかありませんでした。
当然親は私の自殺を認めませんでした。今まで私を縛り付けこんなにも苦しめていたことをここで初めて知り、後悔しているようでした。私はどの口が死ないでなんて言えるんだと言いました。
「私に死しかないと思わせたのはお前らだ」と。
「家にも学校にも居場所が無い私が外で何をしてたか知ってるか」
「このまま生きても悪意しか残らない」
自殺は運よく友人が阻止してくれました。親の言葉なんて届きませんでした。

私の壊れた精神と表出された悪意を、初めて親が知った日だと思います。私は、ここから私達親子の関係は逆転、ある意味壊れたと感じています。両親は私に対して強くものを言えないようになったのです。
鬱もありますので、親としては命だけが心配とかそんな感じなのでしょう。打算的に自分の鬱や悪意を使って親をどうこうしたことはありません。道徳的に駄目だと思っているのでしていませんが、やはり両親と何かを話すときに「私に強く言えないんだろうな」と感じてしまいます。

一番壊れているのは私の人生観と死生観ですが、一度自殺を本気で考えた人間としては「死」の安心安全性ほど魅力的なことはありません。これが悪く機能して、「人生どうでもいい」になっています。自分の人生に興味がありませんし責任も期待もありません。情けないですが、親のせいだと思っている自分もいます。親への悪意は完全に消えたわけではありません。道徳的にまずいと言いながら、実際は親につけこんでいます。
この性格もこの価値観も全部あの過去が原因だから、と自分の不出来や暴走を肯定しています。諦念の由来を親に押し付けているのだと思います。あの時私を生かしたのが悪い、とも。
昔から本なら買ってあげると言われてきたので、今でも本は沢山買いますし半分以上親の財布から出しています。あれだけ勉強が出来なくて毛嫌いしていたのに、自殺未遂から立ち上がって受験勉強したこと。勉強することが私の人権になっていたこと。今でも勉強に固執していること、その心理の原因は親にあること。何かが出来ないと無価値だと思うほどに圧迫した過去があるから、親は私が何かしようとする態度に文句を言えない。たとえどれだけお金と時間がかかろうと。意図せずとも私は親に腐心してしまう。

これは明確な悪意です。
怒りと諦念が消えて、「死にたい」もその特別性を失いました。
人生に対して興味が無い。どうでもいいと思いながら無駄に生きていて、そのツケの支払いを親に任せている。その善悪について考えることからも離れている。
家族を恨んでいるわけではない。仲が悪いわけでもない。
しかし、明確な悪意がある。


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