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柔らかな部分

内側とか本音とかを聞かれたり、人を変えようとする人に触れるたびに思うことの、個人的なメモです。適度にブラッシュアップ。伝えるつもりが浅い文章です。


本音という言葉を辞書で調べると、心からの言葉と書いてある。そんな意味が羅列されているだけあって、私たちは、心を知ることが正しいことだと考える。

しかし、心は、不変でなく、流動。
本音や本心と言われるものは、その時その時(環境、立場、年齢、背景、モチベ)によって、大きく左右される。つまり、人の本音など聞いたところで、解の一例でしかない。

知るべきなのは本質。どのように、なんのために、知ろうとするのか。その姿勢はどんな価値基準なのか。そういうのが、私の定義する本質。
こちらは、経験による蓄積だと解釈している。
経験は絶対数が多いので、そこにプラスした数時間があったとしても積み重なるだけで、ほとんどの場合は大きく変わることはない。

もう少し具体で言うと、性格分類だったり、人によっては色や動物などのイメージなどがマッチしたり。とにかく、自分なりの経験で培った基準で人と向き合っておけば、必然的に特徴や適材適所が見える。

わたしは、本音や本心を、勝手に、"柔らかな部分"と呼んでいる。柔らかな部分は、型が残りやすく、外からの圧力で形状が脅かされる。蛇口から出た水の圧、浮遊感のイメージ。
そんな部分まで、触れさせるつもりはないし、触れるつもりはない。それは心地良く生きていくためには触らない方が良いと、わたしのどしりと構えた本質が好んでいる選択だと思う。

社会に出て生きる時ストレスは、どんなところにでも転がっている。だからこそ、柔らかな部分に圧がかからないよう、本質の硬度を上げるため、自分が自分でいられるような立ち返る遊びを、経験としてたくさん身につけておく。ヘンゼルとグレーテルの石のように、目印をつくる。

たとえば、仕事をしている時。
「わたしは真面目に話しているけれども、ここで話す言葉や意見は、社会的立場に立った時の人間の本音であって、私個人の意見ではない。」
と思っている。
本音と建前というが、建前というよりは、本来とは違う立場の自分に話してもらっているというよが合っている。そうやって本来の私を守るため、心の余裕をもつため、マスクの下で変顔をしていたり、真面目に商談する日に幼稚園児みたいなクソダサ靴下を履いていたり、見えないところでふざけて、自分自身の目印を残す。

ふざけることにより、真面目さとのバランスが取れる。振り幅をつけることで冷静になれ、目印を辿った自己防衛ができる。そうして、自然とストレスに強くなる。
たとえ怒られたり失敗したところで、人格を否定されるようには捉えない。発言を否定されただけで、発言と私は異なる。

もちろん、作品と作家も別物だ。制作も同じやり方をしていて、バランス感覚を保つために作品をつくっている

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