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特に理由もなくパーティーがしたい

今猛烈に、パーティーがしたい。

いわゆるチャラい人を「パリピ」と呼ぶようになって久しいが、そんな時よりずっと昔から、何かにつけて人類はパーティーをしてきた。めでたい時はそれは盛大にするし、ちょっとさみしい時もそれはそれとしてパーティーをした。

僕も、幼い頃からそれなりにはパーティーに参加した。

パーティーの思い出

代表的なものと言えば誕生日パーティーで、保育園児の時は、毎月どこかで誰かの誕生日を祝うようなお昼ごはんが保育園で出ていたし、自身の誕生日では、ケーキやらプレゼントやらをもらったりもした。
小学生になってからは、友人の家で開かれるパーティーにお邪魔させてもらったりもした。途中から違うジュースを混ぜて、更にお菓子を入れる奴がいたのはその心理が未だによく分かっていない。食べ物を粗末にするんじゃない。

親族の葬儀・告別式が終わった後は、念仏を唱えた後に仕出し弁当をいただいたりもした。初めて参加した時は、さみしい気持ちになった後にビールを飲む大人たちの感覚が分からなかったのだが、「大人は集まったらとりあえず酒を飲む」ということが分かったのはここ最近である。

大学生になったらなったで、たこ焼きパーティーのタコパ、鍋パーティーの鍋パなどはそこそこの頻度で開催された。食べることがパーティーの主目的で、何かを祝ったりしなくてもパーティーは出来るものなのだ、と僕は学んだ。あとは「金はないが時間は余りあるほどある」大学生にはぴったりのパーティーだった。
ちなみに僕は、自他ともに認める鍋奉行であるため、鍋パの時には結構活躍した。普通の鍋以外にも、バケットとクリームシチューの鍋パは冬場にオススメである。

もう少し大きくなって、一生に一度のパーティーである結婚式に出席するようになった。初めて参加した時、招待状に書いてある文言をそのまま受け取り、何の気無しに披露宴だけ参加する、というムーヴをしたこともある。
初めて参加した披露宴から何回か全てに共通しているのは、その新郎新婦誰しもが「胸を張れる人生を歩んできた」という点で、そこに気付く度に僕は「めでたい、ただただめでたい」とワイン片手にコースメニューを頬張るのであった。

今、パーティーが出来ない

2020/02/29現在、身の回りは不要不急の外出を控え、イベントの開催や参加を自粛するようなムードが漂っている。それは、これまで参加したようなパーティーも同様である。

しかし、古来から人類は No Party, No Life, パーティーをしてきた生き物だ。それを無理に止めようものなら、まともに生きれなくなるのは必定である。人は食べ物だけでなく、心の糧も必要としているのだから。

また、現代社会ではパーティーを開くことで日々の糧を得る人たちも多く存在している。それを考えなしに「今はいらないからやらないでね」と言ってしまっては、その人たちはパーティーもできないし、そもそも日々のご飯にありつくこともできなくなってしまう。

とにかくパーティーがしたい

何か問題があった時にその対策を打つのはもちろんすべきであるが、必要以上の対策はコストパフォーマンスが悪い。適切な方法とコストで対策を打つべきだ。

気持ちがふさぎ込んでしまうような時だからこそ、適切な対策を打った上で変わらずパーティーに興じたいと思う。直近では久しぶりに集まる友人たちとのパーティーがあるので、それを楽しみたい。

また、何かしらのホームパーティーをやるとなれば、お土産の一つでも持って馳せ参じたいものである。低温調理器を買ってから、いつでもローストビーフやローストポークを作れるようになったため、機会があればそれを渡している。誠意とは焼いた肉の形をしているらしいので。


色々あるけど、楽しくやっていきましょうね。

効果効能として、欲しい機材を買ってはしゃぐ私か好きな服を着てはしゃぐ私が見られます。買ったものは記事にします。よろしくお願いします。