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《人生で三番目に嫌だった時期》

腰椎分離滑り症

前の記事で野球部だったことについて話したが、あの時の葛藤を今でも覚えている。僕はそれまで、運動の成績はあまり良くなくて、長距離走においては下位グループだった。しかし野球をはじめてから短距離走も速くなり、長距離走は上位に入り、中1では学年5位になり駅伝の選手にも選ばれた。
しかし、急な運動と持ち前の身体の硬さも相まって、腰の疲労骨折を起こしたのだ。
タイミングが悪かった。
僕はピッチャーのグループにも入ることになり、とても嬉しかった。腰痛を感じていたが無視していた。そしてある日の部活中、急に歩けなくなり崩れ落ちた。

痛みが1番辛いことじゃない

様々な病院を回ったが、そこで感じたことは「医者みんなテキトーだな」。本当にガッカリしたのを覚えている。登校は車になったが、帰りは歩き。今まで15分の下校時間が1時間になった。寝返りも、くしゃみも、ありとあらゆることが激痛だった。こんなことは他の誰にも分からない、自分だけの秘密の感覚だった。

いじめが一番辛いことじゃない

僕は元々一つ上の先輩から嫌われていた。無害な人も数人居たが、なかなか多めの人数だった。発端は曖昧で、誰だか忘れたが、ひとりの先輩の好きな女の子と、僕が話をしていたのを見られたとか、そんなくだらないことだった気がする。
怪我をきっかけにエスカレートし、同級生においてもそういうやつが始まった。雑用しか出来ない僕に対して死角からボールを投げてくるだとか、会話してくれる人が居ないだとか、犬のフンをスコップで片付けるだとか。そんな可愛いことだったからか、僕は大して辛くなかった。いじめだという風にも認識してなかった程だ。こんなことは本当に辛いことでも何でもない。人見知りゆえひとりは好きだったし、大人になればこんな対応は無くなるって分かっていたから。

今更感謝

ずっと謎だったことがある。ひどい激痛の時期が過ぎた頃から、全く仲良くも無いしまともに会話もしたことないイケイケグループの先輩が結構頻繁に「おい、キャッチボールするぞ」と言ってくるようになった。僕は取りづらいボールを投げない様にと、緊張をしながらこなしていたのを覚えている。誰とも話さずひとりが居心地良かったので、少しだけ嫌な時間だったりした。

でも、今更わかった。なんで下手くそな俺なんかを頻繁に誘うのか。ひとつ上の先輩は全員に嫌われてるも思っていたが、一人だけ居たんだ。言葉こそ無かったが、先輩なりの優しさだった。今更感謝している。

すべて終わったけど戻らないもの

そしてし1年とちょっと経ち、先輩も引退して数ヶ月が経った頃、違和感に気づいた顧問の先生(遅い!笑)が同学年だけの集会を開いて、僕についての議題を話し始めた。僕としてはただの日常だったので、みんなに時間を取らせて、自分に視線が集まる機会が本当に嫌だった。誰とも話せないのも、一人で帰るのも辛くなかったから。
でも、みんなが集まってきて「ごめん」と言われてた時はなんだか少しウルっと来たような気がする。
そして次の日から、僕にとっては当たり前じゃない、普通の日々が始まった。


でも、本当に一番辛かったのは、凄くいい球が投げられる様になってピッチャーの練習が始まって早々に野球が出来なくなった事。
大人になって、チカラも強くなり速い球を投げられる様になったが、中学1年生の頃の“軽く投げてるのに凄くいい球が投げられてる”あの感覚は今も忘れなれないけど、もう二度と戻らなかった。

そんな中学生活だったが、3年生のクラスはみんな仲良く楽しかったし、バンドも始められて楽しい中学生活だったと思う。腰痛治ったの8年後だけどね!!今もたまに痛え!

おしまい。

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