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「積み上げ」の習慣

たとえば、プロレベルのバイオリン奏者になるのであれ、スポーツ選手や芸術家、学問のプロになるのであれ、必要なのは天賦の才ではなく、

 「累計で約10000時間の練習や特訓を積み上げることができる」

くらいの本人の努力であり環境だという統計的な考え方です。

この10000時間という数字やその内容については議論の余地があるものの、大切なのは「量が質に転化する」決定的な境目があるという点です。

個人的には、私もまったくの同感です。

それでも中には"例外"的な人がごくわずか存在しているのでしょうが、世の中の成功者の9割以上が実にその成功に見合った努力量をしていると確信しています。

マネジメントにおける「計画」は未来を予測するという意味において、いわゆる

 捕らぬ狸の皮算用

とまったく同じ根っこを持っていると思います。唯一異なるのは、マネジメントは事実に基づくものであり、自分に都合のいい性善説に基づいたりはしないという点にあります。

フェルミ推定と呼ばれる地頭を鍛えるために用いられる方法論などでも、"仮説"を立てて論理検証を行うことが推奨されています。

どちらにしても未来を語るためには『予測』が必要で、確実性がないことを前提にしなければなりません。計画は、その確実性を限界まで引き上げるための数少ない実現手段の1つなのです。

皮算用と計画は本質的に同じ

ここで、捕らぬ狸の皮算用をしてみましょう。

たとえば、みなさんが平均的な大学生と同程度の読書を毎日しているならそれは

1日に平均で約25分
ページ数にしてざっくりと40ページほど

読書時間の値は全国大学生活協同組合連合会、「第52回学生生活実態調査の概要報告」より

と見積もることが可能です。

この数字を1年で換算すると14,600ページ
書籍のページ数を平均300ページと仮定すると、48冊に相当します。

私もおおよそそのくらいの冊数は読んでいると思います。読書時間が0分の人の割合が半数に迫っている昨今、それなりに読んでいるほうといえるかもしれません。

ではもし、この1日平均の読書量を1.5倍の60ページにできたならどうでしょう。
年間の数字は累計で21,900ページ、冊数にして73冊に達することになります。

もしこれを10年間持続することが可能ならば最終的に1日40ページ読む人と、1日に60ページ読む人の差は

 146,000ページに対する219,000ページ
 冊数にして486冊に対する730冊

"244冊の差"が生まれることになります。

ここで言いたいのは、読書が1日40ページでは足りないので60ページに、いや100ページにしよう…などということではなく、1日に40ページを読んでいる生活で到達できる場所と60ページで到達できる場所には明確な違いがあることを、数字として具体的に意識してほしいということです。

もし1つのジャンルについてまとまった知識を得たいと考えていて、そのジャンルに存在する代表作を200冊程度だと見積もった場合、「1日に何ページ読んでいれば3年以内にそれを網羅することができるか」といった逆算的な発想が大切なのです。

同様の計算は絵を描く枚数や、観る映画の本数、作る作品の点数からスキルを習得するのに許されている時間など、どのような活動の「積み上げ」にも応用することができます。

毎日の生活の小さな活動量の違いは、3年後、5年後、そして10年後に大きな違いとしてやってきます。こうした発想を使って、未来を設計することが可能になるのです。


毎度おなじみ「計画」について

マネジメントにおける計画も、常々ありとあらゆる書籍において

 ゴールから定義するもの

と言われています。

 「最終的にどうなっていたくて、そうなるためにはどうすればいいのか?」

それが計画です。

たとえば、『自宅でカレーを食べたい』とします。

逆算すると、まさに今自宅でカレーを食べられる状況を生み出すためには、直近で「カレーが存在」していなくてはなりません。

では、その状況を作り出すためには「レトルト」「コンビニ」「自炊」「配達(?)」と言った選択肢が出てきます。そこで「自炊」という選択肢を選んだのであれば「ご飯が炊けている」「カレーが出来上がっている」が両方とも達成していなければならず、そのためには「ご飯を炊く」と「カレーを作る」が必要になります。

ご飯を炊くためには、「米を研ぐ」「炊飯器にかける」「40分待つ」のクリティカルパスが必要で、それらを達成するためには「米があること」「炊飯器があること」「電気が使えること」などが揃っていなければなりません。

このように、ゴールから逆算的に見積もっていくのが"計画"です。

少なくとも、それ以外を計画と呼ぶ研究者や企業、書籍やサイトなどは見たことがありません。


経験 or 知識 ではなく 経験 and 知識

また、プロの写真家が初心者にアドバイスをする際、ほぼ間違いなく出てくる言葉が「とにかくシャッターを切ること」という助言だそうです。経験数が増えれば、経験則と言うデータから質の向上が図れる…と言うことでしょう。

料理人でも、大工でも、もちろんプログラマやエンジニアでも、同じことが言えます。

しかし、これを数字として強く意識する人はどれだけいるでしょうか。

たとえばみなさんが写真の腕を磨きたいと考えていたとします。
プロの写真家のように累計何十万枚も撮影することは無理でも、せめて1年に10000枚の写真を撮影したいと考えた場合の活動量は、

 1日あたり27.4枚

になります。用事があったり風邪をひいて寝込んでいたなど理由が何であっても、この数字以下ならば目標は達成できません。

また「日常のスナップだけではなく、テーマ性のある写真を何割撮影したい」といった目安をここに導入してもいいでしょう。

私は、これをゲームのレベルアップのシステムと同義だと考えています。

ゲームのレベルアップの概念は、

 経験し、経験値を積み上げ、
 一定量を達成しないとレベルアップしない

というものです。

どんなに頑張ろうが、自己満足の域でふらふらしているだけではレベルアップはしません。レベルアップのためには、レベルアップに求められている経験値を達成するしかないのです。

経験しようとしない人間も、絶対評価値を達成しない人間も、レベルアップは決して不可能です。人の成長過程をモデリングすると、ゲームのレベルアップの仕組みが秀逸であることがよくわかります。

話は少しそれましたが、こうした数字を意識すると未来に先回りした計画的な思考方法が可能になっていきます。

 「週末に必ず数百枚撮影するには、ある程度散歩に出なければいけない」
 「次の撮影場所を1週間前までには考えなければネタに困ってしまう」

といった形で、目標を達成するための行動計画を決める視点に立つことができるようになるのです。つまり、未来にどこまで到達したいかを意識して今日の活動量を決めることで「知的生活を計画する」わけです。

このように書くと、

 「読書は冊数をこなすものではない」
 「写真は撮影した回数ではない」

という反論が当然出てくると思います。

それはもちろんそのとおりで、こうした設計は1冊の本の魅力や感動、1枚の写真や絵の美しさとは別物です。

しかし、一通り学習したからと言って、「実務を経験していなくてもプロと同じ領域に達することができるか?」と言うとそれが不可能なこともわかるかと思います。

経験則からでしか得られない領域があるのも確かで、量をこなさなければ質が向上しない部分があるのも現実なのです。

むしろこうした計画の考え方は、どれだけの本を読めばあるジャンルに対して一定の理解が得られるのか、どれだけ写真を撮影すれば自分自身の作風を生み出せるのかといったように長い目でみた活動の行き先…つまりはキャリアパスを意識した考え方といえます。

知的生活、知的作業を計画することは、やがて到達したい未来を意識しながら今日を楽しむあるいは安定した仕事を送るための考え方といっていいでしょう。

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