Giveする人とTakeする人
『成功者』
この定義はさまざまだと思いますが、ここでは「経済的に恵まれ」さらに「社会的に認められている」人を呼ぶことにしましょう。
そんな「成功者」について議論をするときに常に付いて回るのは、「成功は運か?それとも実力か?」という話題です。これについてはさまざまな意見がありますが、私の経験からいえばこれは明らかに「実力」です。運が後押しすることはあるでしょうけど、残念ながら運だけで成功することはまずありえません。
運を呼び込むためのあるいはチャンスをつかむための最大限の努力とその努力を継続できる実力があって、初めて成功しているように思えます。
もちろん何事にも例外はありますが、そのようなものを引き合いに出しても何の意味もありません。
たとえば、宝くじと同じです。
当たるか当たらないかは確かに運かも知れませんが、当たるための努力として『買う』と言う行為をしなければ、その運を引き寄せることすら叶いません。
一般的に成功者の多くは、
成功するべくして成功する
のです。それは必然であり、偶然ではありません。大なり小なり成功者を観察しているとそれがよく分かります。
もし、成功者の定義を「経済的に恵まれただけの人」とするのであれば、ひょっとすると運だけで成功することもあるでしょう。しかし「社会的に認められている人」という定義を付け加えたときには残念ながら当てはまることはないでしょう。
悪いことをしていても…あるいは運が良いだけでも「お金」は手に入れることができますが、「多くの人に認められる」ためには他者に大きな貢献をしなければならないからです。いいかえれば「他者に大きく貢献した人」が、お金とそれにふさわしい地位を手に入れるのです。
そしてこの2つを同時に満たすとなれば、運や偶然によるものだけでは成立することが非常に困難になります。
しかし、このような話をするとよく「そんなことは分かってるよ」という声が返ってきます。確かにその通りです。
実は、そんなことはみな分かっている。
だから、本当はみな成功できるはず――。
なのに、現実は異なります。
では、いったいなぜ成功する人は少ないのでしょう?
ペンシルバニア大学教授のアダム・グラント氏は「誰が成功のはしごを登るのか」を調査し、そして成功のための重要な要因として「give and take」に対する考え方を挙げています。
彼は世の中の人々を、
受け取るだけの「テイカー(taker)」
もらえばお返しするバランス派の「マッチャー(matcher)」
惜しみなく与える「ギバー(giver)」
の3種類に分類し、どの人々が最も成功しているかを調べました。
さて、この中で最も成功してたのはどの人々なのでしょう?
人から受け取るばかりの、立ち回りのうまい「テイカー」でしょうか?
いいえ、違います。
最も成功していた人々は「ギバー」、つまり「人に与える」人々でした。
「最も多く受け取る人は、最も多く与えている」
というのは真実だったのです。
では、逆に最も成功から遠いのは、どの人々だったでしょう?
実は、最も成功から遠いのは、どの職業をとってもこれも「ギバー」、つまり「人に与える」人々でした。意外に思う方も多いかもしれません。
さきほどの話とは全く逆ですし、直感に反します。
しかし、エンジニアの世界においても、医学部でも、販売員でも、「ギバー」は成績の最も低いグループに最も数が多かったのです。思いやりがあり、人の勉強を手伝い、相手にとって何がベストなのかを常に気を配る人は「自分」より「人」を優先するため、生産性が低く、成功するどころか逆に損をしていたのです。
結局、ギバーは
「ばかなお人よし」
「最高の勝利者」
の両方でそれぞれ突き抜けた成果を発揮するというわけです。
では、「ばかなお人よし」と「最高の勝利者」を分かつものは何だったのでしょう。
アダム・グラント氏はこのように結論付けています。
自己犠牲的とは、自分の利益を顧みず人に与え続けることです。それに対して他者志向的とは、受け取るより多くを与えても決して自分の利益を見失わず、いつ、どこで、どのように、誰に与えるかをきちんと考えることです。
従って「成功するギバー」は、「上司」「取引先」が搾取する人々、すなわち「テイカー」であるかどうかを常に監視し、もし彼らがテイカーであることが分かったらすぐに彼らとの縁を切り、新しい関係を求めます。
この事実からは分かること、それは
成功したければ「テイカー」とはとにかく縁を切れ
ということです。
世の中には「テイカー」がたくさんいます。
たとえば、「搾取型の経営」をする経営者です。
ブラック企業と呼ばれる企業は、例外なくこのタイプになります。そういった経営者の下で働いている人がたとえば職業相談所などに相談すると、ほぼ100%「すぐ逃げなさい」と言うアドバイスが飛び出してきます。テイカーとは早々に縁を切ったほうが良いからです。
逆に、要求するだけで会社や一緒に働く人々に貢献も感謝もしない社員もたくさんいます。このタイプは見ていればすぐにわかります。要求はするくせに絶対に本人から見返りを返そうとはしません。
プライベートであれば「見返りを求めない」という精神は崇高といえるかもしれませんが、ビジネスの世界ではそんな考え方はクズです。
ビジネスの世界…つまり商取引の世界では必ず見返りがなくてはなりません。
これを「対価」といいます。
これは雇用契約であっても、請負契約であっても、準委任契約であっても、労働者派遣契約であっても、もちろん売買契約であってもすべてにおいて言えることです。契約を取り交わすのは一方が一方を搾取するためではありません。互いが互いに公平なやり取りをするために行われるものです。
そのためビジネス下において「見返りを求めない」「見返りを渡さない」姿勢というのはどちらも悪となります。ビジネスを軽視し、侮辱しているといっても過言ではありません。
上司と部下の関係では、業務上の指示なのかまたはテイカーとしての振る舞いなのか判断が難しいところですが、それも見返りに何をもたらされるのかを確認すればおのずとわかってきます。
たとえば同じような待遇の同僚が3人いたとします。
さて、このなかで最も高い報酬をもらっているのは誰でしょうか。
また、このなかで最も労働量に対して報酬割合が少ないのは誰でしょうか。
上司は、正しく見返りを渡せていますでしょうか。
たしかに日本の労働基準法は、あくまで「働いた時間」をベースに考えられています。これは古き良き工場のライン作業などをイメージしているからです。誰もが同じ作業を同じスピード、同じ効率で淡々と実施しているだけの仕事をイメージしているがために
「働いた時間分だけの報酬をもらう」
ことを良しとしています。しかし、今のご時世はそんな仕事ばかりではありません。人によって、やり方によっていくらでも生産性が変わるようになってきました。企業側は法律を盾に、それ以上の見返りを与えずただただ「生産性を上げろ」とばかり言ってはいないでしょうか。
また、同僚や他部署など指示・命令系統が存在しない間柄ではたいていの場合「依頼」という形になるでしょう。他人の時間や労働力などを奪って、自らの成果や課題解決に直結させておきながら逆に依頼されたら反抗する人さえいます。
そういった社員に関わってはいけません。
みなさんの人生はみなさん自身のものであって、1分1秒たりとも他人のものではないのです。基本的に自らの努力や行動によって成果を誇れず、他人を食い物にして生きる人は寄生虫と変わりません。
これは、経営者だけではなく周りの人々にも迷惑を与え、いずれは会社をあるいは組織を崩壊に追い込むからです。
逆に、大きく成功したければ「テイカー」を見抜いた上で近づかないようにし、この世の多くを占める「マッチャー」たちに対して「ギバー」として振る舞わなくてはなりません。
もちろん、先に与えるという行為は口でいうほど簡単ではありません。ある意味でギャンブルと同じようなものなので、ひょっとしたら見返りはかえってこないかもしれません。
しかし、全ての人に対してギバーとして振る舞えなくても、心掛けとしてたとえば、
知人のサービスであっても「友達価格で、割引してくれ」とは言わない。
地元(出身地)のために、進んでさまざまなことを引き受ける。
惜しみなく、他者に称賛を送る。
など、身近なことから1つくらいであれば「ギバー的行為」を始めることは、誰とっても不可能なことではないはずです。特定の誰かのために行動するのはハードルが高いとしても、元々無償提供として覚悟できる"不特定"の誰かのために行動するのはそれほど難しくハードルも高くありません。
私自身も、コンビニのレジ前でみかける義援金やクラウドファンディングなどを利用した寄付などはよく活用してみます。京都アニメーション支援のクラファンも参加しました(最近はあまり外に出なくなって、機会もずいぶん減りましたけど)。
ちょっとムーブになるような寄付の類は結構頻繁にしています。
と言っても、アマノジャクなのでしたくなったらするだけで相手から求められると絶対にしないのですが。
他にも、募金活動などに対しては、
「半径2m以内に近づいてきたら、ポケットの中にあるお金だけ寄付する。
自分からはあからさまに近づいたりしない」
と、子供の頃から自分ルールにしていて、いまも大半は実践しています(財布の中身は、何かしら買い物等で使うことを前提にお金を入れているわけだし、財布から取り出す際のモタモタが嫌いなので基本的に使いませんけど)。
先ほども書いたように特定の「〇〇さんのために」では一切動きませんが、「〇〇に関わる人たちのために」と言われると「よーし頑張るか―」と言う気になったりします。
そして、多かれ少なかれ色々な成功をしているという認識もありはしますが、明らかに群がるテイカーに翻弄させられている実感がありますので、おそらく私は"搾取されるギバー"なのでしょう。
アダム・グラント氏の言う通り「惜しみなく他者に与える人」「付き合う相手を選ぶ人」が成功する、あるいは成功者に圧倒的に多い…と言うことは間違いないようです。
しかし、人が集まれば必ず「テイカー」と「ギバー」が生まれます。
そして中には悪いことに「搾取されるギバー」が出てしまうこともあります。
特に日本では不思議なことに「テイカー」という本質的に悪い存在があるにもかかわらず、搾取される「ギバー」側に責任を要求するような風土があります。
身近なところで、
「いじめは、いじめられる側にも問題がある」
と言うような、いじめを侵す側を擁護するような風潮です。いじめと言う結果に対して、いじめをする意思を持っていて、わざわざいじめやすい相手を見つけ、明確な意図をもっていじめをしている以上、いじめた側に100%責任があるのは自明です。
仮にそれが殺人に及んだとして
「殺人は、殺人される側にも問題や責任がある」
と言って、殺人した犯人が擁護されることがあるか?と言うとそれはないでしょう。
実際に殺人されるには理由があったのかもしれませんが、それで殺人した側の罪が軽くなるようなことはなく、殺人と言う結果に対してのみ判決が下るようになっています。
にもかかわらず、いじめだけは何故か考え方が180度変わるのです。
いじめは、いじめる側の"悪意"や"害意"、"他人への迷惑の不理解"によって引き起こされます。それ以外の動機で起こることは絶対にありません。殺人のように、立場や状況によってやむを得ず…と言うこともありません。「そんな気はなかった」ということも絶対にありません。いじめは、かならず明確な意思がそこにあります。
少なくともいじめられる側には何1つ改めさせるような要素はありません。
仮にいじめたくなるような風貌・性格・仕草等の要素が何かあったとしても、そのことが「いじめていい」免罪符になることは絶対にありません。いじめる人にとって自らの「いじめたい」欲求が社会のルールを守ることを疎かにしてもいいと考えたことで起きる明らかな"悪意"や"害意"だけが「いじめ」という社会問題を起こした原因であり、要因です。
欧米含め、諸外国ではこうした考え方は絶対に行われないのですが、なぜか日本だけがこのまったく筋の通らない論理を言い出して、被害者をより不幸に陥れようとする文化を持ちます。
これと同じように「ギバー」の人の好さや優しさに胡坐をかいて、いつまで経っても「テイカー」で居続けた人間がどんな言い訳をしたところで、「テイカー」として他人から搾取し続けた経緯がなくなることはなく、それによって「ギバー」が貶められる必要は全くありません。
そんなに「ギバー」を貶めたいのであれば、ギバーは二度とテイカーには与えなければいいのです。テイカーのために生きてやる義理も、人生という時間を消費してやる義理もないのですから。
もしみなさんもこれまで「搾取されるギバー」として苦労されてきたのだとしたら、これからはテイカーなんて無視して「与える相手を吟味して与えるギバー」になりましょう。
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