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イエスマンしかいない組織に未来はない

ピーター・ドラッカーの名前は、誰もが一度は耳にしていると思います。
しかしその実、彼の著書を読了した人はどれくらいいるでしょうか。

経営学の父として知られるドラッカーですが、彼の考え方は決して古典などではありません。未だに世界中の数多くの名だたる経営者が彼の著書をバイブルとしています。

相手が生徒であれ、コンサルティングを行う顧客企業であれ、決して答えは教えず、
適切な問いで本人自身に答えを見つけさせるのがドラッカー流でした。

このいつの時代にも通用する普遍的な「考え方の考え方」ともいうべき思考法こそが、ドラッカーの神髄と言われています。考えることを止め、「誰かに言われたから」その通りに動く…という人にとっては耳の痛い話かもしれません。

ドラッカーは大事なこと、価値のあること、さらにはしゃれたこともたくさん語り、また書いており、マネジメント分野の思想家として彼以上に引用されている人物はいないのではないかと言われています。

しかし、教室や私的な会話では何度も繰り返されたと言われているのに、ドラッカーが書いた本にはあまり登場していない言葉があります。

それが

 「みんなが知っていることは、たいがい間違っている」

という言葉です。
ドラッカーは生前、よくそう言っていたと言います。

言い続けたのは「そうだ」と確信していただけでなく、重要なポイントだと思っていたからでしょう。重要でなければ、何度も繰り返すはずがないからです。

矛盾を含むとしか思えないこのシンプルな言葉は驚くほど正しく、ビジネスやマネジメントの決断や分析にとても役立ちます。なぜなら、本当はそうじゃないかもしれないのに、

 「みんなが無効だと知っているから使えない」

と思ってしまう選択肢が選べるようになるからです。
ドラッカーはいつも、

 「仮定はすべて疑ってかかれ。
  それがどこから出てきた仮定でも、
  一見どれほど不可能に思えようとも、
  すべて検討すべし」

と説いていたと言います。
この考え方は私も賛成です。

本当に対象に興味を示していれば必ず疑ってかかるはずです。無条件に信用するのは興味を示していないことの裏返しでもあるからです。

特に検討しなければならないのが、大半の人が知っていること…つまり何も考えずにみんなが前提条件としていること、すなわち個人の中で蓄えられた"常識"です。

常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

アルベルト・アインシュタイン

こういったたぐいの偏った「知識」は疑ってかかり、じっくり検討してみるべきです。
そうすると「真実だと知られている」情報が実は間違っていたり、不正確だったり、あるいはある条件においてのみ正しかったり、などといった事実が判明することが実に多いことがわかります。

なぜそうなるのか?

それは、

  • 常識だと思われてたシチュエーションや条件と、常に一緒とは限らない

  • 常識だと思っている人が、自分にとって都合がいいからそう言っている

  • 常識だと思われてた頃から、相当時間が経過していて、今の時代に合わない

など様々な変数の組合せによって、必ずしもすべてのことが不変的であるとは限らないためです。

法律、規格、規程、ルールでさえ、不変的なものはありません。

一般的に不変的なそれらを"真理"とも呼ぶことがありますが、そういったものは世の中にごく僅かしかないのです。にもかかわらず一度そういうものだと教え込まれるとずっとその教えやあり方にしがみついて、それを常識だと思い込んでいる人が絶えません。

逆に、疑ってかかってみてきちんと調べ、しっかりと検討しなければすばらしく価値のある選択肢を見逃したり、不出来な提案やそれこそまちがった提案をしてしまったりすることも出てきます。

この一言は、ドラッカーの仕事でとても大事な役割を果たしていたものと思われます。ドラッカーのこの考え方に限って言えば、実は何千年も前から正しかったことがわかります。

その実例が、大昔イスラエルにあったサンヘドリンという最高法院です。

今の最高裁判所にあたりますが、その力ははるかに強いものでした。

このサンヘドリンでは重要案件が審議され、死刑に至るまでの処罰が科されます。

しかし、この法廷には検察官も弁護士も登場しません。いるのは裁判官のみで、被告人、告訴人、さらにはどちらかが呼んでいれば、証人についても審理が行われます。

なお、サンヘドリンでは王を含むあらゆる人の審理が行われており、無罪は1票差の多数で決定できますが、有罪は2票差以上の多数でなければならないとされていました。

サンヘドリンは2000年以上も昔の制度ですが、そこではドラッカーの考え方が法的手段として規定されていました。

つまり、71人の裁判官が満場一致で死罪と判断したら、被告人は「無罪放免」となるのです。

サンヘドリンの裁判官は賢い人々のはず。
であるのに、どうしてこういう規定になるのか。

サンヘドリンの審理において、被告の弁護をする人はいません。けれども、どれほど重大な犯罪であっても、あるいは証人や証拠にどれほど説得力があっても、弁護の余地は必ずあります。

そう古代イスラエルの裁判官は知っていました。

だから、被告人の主張にも一理あると認める裁判官が1人もいないという状態は、

 「何かおかしなことが起きている」
 「裁判に間違いが起きている」

証拠だと考えるのです。

被告人と敵対している人の中にカリスマ性のある人や、口のうまい人がいるのかもしれません。政治的圧力や汚職によるかもしれないし、大司祭や王など「上の意向」があるのかもしれないわけです。

満場一致になったという事実だけで本当のところ被告は無罪である可能性が高いし、これは有罪を示唆するその他すべてに勝る大事なポイントである、と彼らは考えます。

裁判官は、みな経験と判断力を買われて任用されているわけですが、

 その彼らが全員「間違いなく正しいと知っていること」があれば、
 それはおそらく正しくない。だから被告人は放免となる

これは、心理学的な研究でも『バイアス』と言う定義によって確認されています。

たとえば、写真を見せて、どの人が魅力的かを被験者に選ばせる実験を行うとしましょう。ただし、本当の被験者は1人だけ。残りは実験チームのメンバーで、すべての写真セットについて「誰をいちばん魅力的だとするか」事前に示し合わせているものとします。そうして実際に写真を選ばせると、真の被験者もほかのメンバー全員が選んだ写真を選びがちになる…というものです。

メリットの有無や自分の感覚にかかわらず、

 「みんなが選んでいるから」

と選んでしまうのです。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というアレですね。

いわゆる「社会的証明」というものです。

これは、「みんなが事実だと思っている場合、それは事実でもなんでもない、あるいは特定の条件でしか事実になりえない」というドラッカーの考え方を立証していると言えるでしょう。

私もよく「自分を含むすべてを信じていない」と言います。
また、「裏表を持つ気はないから、良いものは良いというけど、悪いものは悪いというよ?」とも言います。

よほど気心の知れた人から

 「え、おれのことも?」

と聞かれても「当然」と答えます。それでしょぼくれている人やショックを受けている人も多いのですが、私に言わせると現代における「信じる」という言葉は、ほぼ「無関心」という言葉と同義であることを意外と理解していない人が多いように見受けられます。

相手に興味があり、相手の言うことを真剣に考えるからこそ、
内容に興味があり、その内容に対して誠実であろうとするからこそ、

無関心にならないように、一つひとつの言葉や行動に対して検討し、検証し、常に最善であろうと努力するべきだと思うのです。疑うということは、相手に対して真剣に向き合うということでもある点について今一度見つめなおしてみてもいいのではないでしょうか。

しかし、昨今の社会では

 「信じてるから」
 「頼りにしてるから」

という都合のいい使いまわしで無関心を貫き、誰かに甘え、自分の都合を押し付ける人が後を絶ちません。ただの思い込みで騙されてはいけません。目の前の事に真剣に向き合っておらず、あなたに丸投げしようとしているだけです。

たとえば、社会インフラを改善するためのシステムを構築している自分。
たとえば、ある工場数百人の作業員が稼働するシステムを作成している自分。
たとえば、世の中で走り回る自動車に組み込まれるソフトウェアを設計している自分。

より品質を高め、より多くの人に迷惑をかけないようにするため、自分が着手している仕事やその結果生まれる製品に対して誰かの決定にただ闇雲に信じ、依存し、疑いもせずに、盲目的に作業するだけ…と言う状況が、本当に真剣に向き合っていると言えるでしょうか?

プログラムのバグやレビューの指摘などでも、多くがこの「思い込み」に相当するのではないでしょうか。疑わないことが、どれほど自分たちの行動の品質を下げているのかがよくわかる事例です。

とはいえ、根拠もなくただただ思い込みで猜疑心に駆られるだけ駆られ、否定するだけして何一つ前に進もうとしない…というのは意味がありません。

 「信じるために疑う」

だからこそ、検討、検証を行うプロセスを経て、初めて信じるに足ることを確認しながら前に進むことができるのです。

ドラッカーは、「みんなが知っていること」「みんながそうだと思い込んでいること」にとらわれず、よく考えて成功に至る自分の道を切り開けと教えてくれています。

 「常識」とは、検討し、検証し、証明しない以上、ただの仮定にすぎない

ことを理解しなければならないということです。


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