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言葉につられる人

たとえば「誰もが気軽に発信できる――」それがインターネットの魅力ですが、裏を返せば専門家の学術的見解も、素人の思い込みも、同じように流布されているということでもあります。

インターネット上の情報は玉石混淆

しかも最近では、グーグルなどで検索をしても、SEO(検索エンジンで上位に表示されるようにする手法)によって宣伝的なサイトが上に表示されるようになっています。

みなさんの企業でもSEO対策にやたら詳しい部署や人がいたりしませんか?

そう。お金を払ったり、ちょっとテクニックを用いたり、ちょっとしたことで検索上位に並べることが可能になっています。つまり検索する側にとって"玉"となる情報かどうかという観点とは関係ないところで、情報を提示する側の損得という概念を中心に表示順は決められています。

実際、SNSのインフルエンサーの投稿には、お金をもらっての宣伝である旨を隠した商品PRが紛れ込んでいるケースも多々あります。

いまや情報リテラシーを持ってインターネットに挑まないと玉石混淆どころか、石にしか当たらない時代。

一方的な情報/間違った情報ばかりに触れ、踊らされ、強い思い込みを持って間違った選択をしてしまっているケースも多々あります(〇〇ダイエット!の情報なんてその最たるものですよね)。


また、アクセス数を集めるために人の感情を必要以上にあおり立てる表現が乱用されています。記事タイトルが内容以上に過激になっているのは日常茶飯事ですし、炎上させることが趣味と言い放つインフルエンサーもいます。

「炎上マーケティング」という言葉もあるくらいです。あえて攻撃的・挑発的な表現を取り、意図的に炎上を発生させて注目を浴びる宣伝手法のことで、わざわざ賛否両論を巻き起こして世間の注目を集めることにより、知名度や売上を伸ばそうとしているわけです。

炎上マーケティングの広告を見て、カッとなってSNSに投稿でもしようものなら人々の怒りに火をつけてしまい「アクセス数を稼ぐぞー」「注目浴びるぞー」ともくろんでいる企業や人の思うツボです。

こういうのは正直「手のひらで踊らされている感」があって個人的には好きになれないので、私は一切かかわらず傍観者を決め込むことにしています。


少し話がそれましたが、こうした玉石混淆な情報に振り回されず、必要なモノだけを選び出すこのような能力は、文章表現力や文章読解力などを介してドキュメント品質ひいては文書コミュニケーションにも大きく関与してきます。

ソフトウェア開発において、プログラミングがどんなに優れていてもコミュニケーションが行えるレベルの文系能力が無ければ、

 仕様書や設計書、議事録1つ取っても
 ビジネスメール1つ取っても
 先日お伝えしたオフショア1つとっても

満足にコミュニケーション品質を満たすことはできません。

こうした問題に踊らされないためにも、

 文章を読みとるチカラ
 情報が正しいかどうかを見極めるチカラ

が必要となっているのが"現代"という時代なのです。

では、どのようにそのチカラを身に付ければいいのでしょうか。

情報の出どころ(情報源)を確かめる

ソフトウェア開発の世界(だけに限った話ではありませんが)ではよく

 「源流管理」

と呼ばれることがあります。もう少し聞きなれたフレーズを用いるなら「トレーサビリティ(追跡可能性)」なんて言葉がマッチするかもしれません。どちらにしても「元はどこなのか?」を把握しないことには、その信憑性もままなりませんよね。

 「何を言ったかより、誰が言ったか」

に振り回されやすい人間の性が目を曇らせやすいのはそのせいでもあります。「誰が言ったか」で信用したくなる心理があるせいで、源流がどこかを把握しようとしなくなってしまうわけです。根拠が伴わなくても、偉い人、有名な人が発言すればそれを信じたくなるわけですね。

盲目的すぎて、私はそういう振り回され方に賛同できないのですが、気持ちとしてはわかります。

でも、有名な人のツイート1つやニュースの件名だけを見て、飛び付き、信じたいものだけ信じ、拡散するのは控えましょう。調べ物をしていても1ヶ所だけ見てすべてを"正"だと決めつけるのは良くありません。

いったん立ち止まり、

 ・意見の根拠になるようなデータがあるか
 ・データが挙げられている場合、その引用元である出典が示されているか
 ・出典は信頼できそうなものか

など、意見・情報の出どころを確認しましょう。

ガセネタも多いスポーツ新聞や写真週刊誌、アクセス数を稼ぐためにウワサや偏向した情報でも掲載するまとめサイト、個人運営のブログ、etc.…そうしたものだけが出典だとしたらその情報はすぐには信じられません。

もちろん必ず嘘というわけではないですよ?
信用に足らないとも言いません。

 「信用する条件が満たされているかの確認が必要」

と言っているのです。

出典がない、もしくは怪しい場合、その情報に関する単語を組み合わせて検索し、ほかで裏付けが取れそうかチェックします。もちろんインターネット上に公開されていないデータもたくさんあるのですが、明らかに怪しい情報の場合には少し検索するだけでもおかしいと判明するものです。

たとえば商品やサービスの場合、

 「○○○ デマ」
 「○○○ 詐欺」

などの組み合わせで検索してみると、騙された人の体験談などが出てくることも多々あります。


「誰々が言っているから」を根拠にしない

ビジネスにおいても自身の、自身だけの責任を回避するためにそういった卑怯ともとれる言い方をする人は少なくありません。もちろん日常会話でも「○○さんが言うなら間違いない」という言い方がよくされます。

しかし、先ほども言いましたように情報リテラシーの観点からいうならば、心理的な問題を克服し、

 《誰》よりも《何》に注目する

習慣を持ちたいものです。

「誰が言ったか」で決めるのでなく、「実際に何が言われているのか」と内容面を先入観なしに検証する態度を取りましょう。知識人やインフルエンサーの発信を追うのは情報収集の有効な方法ですが、特定の人物の発信のすべてを盲信するようではカルト宗教の信者と変わらなくなってしまいます。

仮に「誰が言ったか」に着目するとしても、行動が伴っていない人の言葉に耳を傾けると足元をすくわれるだけです。言行一致しない人の言葉ほど信用できないものはありません。

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なんてカッコいいセリフもありますが、己を内省する癖を持ち、過剰なプライドなんて持たなければ、"素性のわかんねぇ通りすがり"であっても真摯にその言葉を受け止めることができるはずです。それができないのは「驕り」という名のプライドに支配されているからです。

だいたい…「○○さんが言うなら間違いない」と言っても、その人が本当にそう言ったかどうかさえ怪しいですよね。仮に言ったとしても本心かどうかはわかりません。お金と引き換えに名前を貸しているだけのケースだってありうるわけです。

それに世の中によくある「常識」なんてのは、そもそも通りすがり以上に出所が不確かで、どこの誰が言ったものかもわからないものだらけです。そんな得体の知れないものであっても言っている内容そのものが正しいと思えれば、「誰」かは関係なく常識として受け入れているはずです。それと同じだと思えばいいんですよ。


事実と意見を区別する

事実(fact)意見(opinion)は、区別して読む必要があります。

 ・ありえない
 ・不快だ
 ・当たり前だ
 ・常識だ

こういった主観的評価の単語が出てきた場合、「ん、ちょっと待てよ? 本当にそうなのか?」と疑うクセを持ってください。

言い手や書き手は「ありえない」「常識だ」と感じていたとしても、実は世間ではそうではないかもしれません。根拠/データがあるか経緯の前後をチェックし、事実なのか意見にすぎないのか確認しましょう。

意見だという場合、引っかかる内容だとしても、

 「まあ、確かにそういう意見もありうるけど……。
  私自身はそうは思わないな」

と読み流してしまえば良いのです。事実の部分だけをしっかり読み、知らなかった情報があれば吸収するというスタンスで読めば少なくとも振り回されずに済みます。


論理と極論は別物

結論ありきで書かれた文章があります。

前提から丁寧に議論を積み重ねたのではなく、最初から個人的な見解/意見は決まっていたものをそれらしくまとめた…というパターンです。

自分の主張を何とかそれらしい文章にするため、後付けで強引に理屈を組み立てているだけだと論理が飛んでしまう箇所が出てきます。

たとえば、よく政府が「欧米では導入されているから」という理由で新しい税金を制定することがあります。国として国民の安寧のためには諸外国の前例を無視できない…というのです。

一見もっともそうな話ですが、必ずしも事実はそうではありません。

その比較した諸外国と日本では歴史も、社会における制度や仕組み、その他の環境に利益構造まで、全てにおいて異なっています。

仮に諸外国を真似たいのであれば、税金を増やす時だけでなく、もっと国民に還元される仕組みや制度も真似ればいいのです。諸外国が税金をとる行為までは真似ていても、「諸外国が税金を何に還元しているのか?」までは真似しようとしないんですよね。

だから、国民に負担だけが圧し掛かる…という例も少なくありません(全部とはいいませんが)。

ですから、諸外国の例を日本に当てはめるのが妥当かどうかはそう簡単に言い切れることではない、ということです。極論すぎるんですよね。

「○○では」と言うのであれば、

 その事例は本当に自分たちにも当てはめてよい事例なのか
 その事例で課題は生じていないのか

などを十分に論証(根拠の提示を)しなくてはなりません。なぜなら「〇〇では」は言い換えれば「(もし)〇〇の場合」と言う、if句による条件分岐の1つでしかないからです。そういう表現をした時点で、else if句やelse句を見逃していいはずがありません。

これは数学の証明問題に置き換えても同様のことが言えます。

 「1+1は2である。以上。」

と言って答案用紙に書き込むのと同じだからです。1+1=2になる証明をするための中間式が無く、いきなり結論だけ書いているようなものです。

これは、小学生1年生の『算数』で、

 「1たす1は2にしておこうね」

という定義ありきでそうなっているのであって、必ずしもそうとはならない議論は『数学』の中でよく議論されています。たとえばリンゴ1つと、リンゴ1つ、一緒にすればリンゴは2つになります。
でも、

 「1個100円のリンゴと1個100円のリンゴをあわせて買うと
  必ず200円になるか?」

と例を出されたらどうでしょう。現実を知っている人であれば常にそうなるとは限らないことを知っています。 スーパーでは2個だと180円になる可能性もあるからです。

当然、文章として「〇〇ではAだった。だから××でも同じにするべきだ」と言う表現が、そんなに短絡的に考えていいことか?と言うと、何かしらおかしいことがわかってきます。

本当に正しい文章にしたいのであれば、たとえば

 「〇〇ではAだった。
  なぜなら△△という条件を満たしていたからだ。
  ××でも、△△という条件は同じである。
  だから、××でもAにするべきだ」

と言ったように根拠の提示や検証が行われていなければなりません(一例:演繹法)。それが正しいかどうかはさておいても、こういった論証が必要になってくるのです。それ抜きでは、どんなに先進事例を振りかざしても片手落ちです。

安易に誰かの口車に荷担したり、それによって感情的になって判断を誤ったり、デマかどうかも確認せずに拡散したり、他責にするために他人の名前を利用して手を抜いていたり、コミュニケーション努力を怠っていることが露呈したりすると、時に社会的信用を失うおそれもあります。


表現力、読解力を身に付けることで無用なトラブルを避け、様々なコミュニケーションから正確に情報を読み取れるようにしたいものですね。

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