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エゴで組織運営をすると企業は腐る

さきほど、こんなつぶやきを見ました。

私も100%そうだと思います。

一般的に、組織で昇進するにつれて役割は大きく、重いものとなりますが、当然ながらそれに見合った地位や権力も増していきます。そうしなければ、大きな役割を成し得ないからです。

ですが、そうすることによって与えられた役割に従事しやすくなる利点をもたらす反面、リーダーが「人間的」すぎると、

 なんでもかんでも抱え込んで、勝手に自滅する
 なんでもかんでも部下に押し付けて、自分だけ楽をしようとする

こういった独りよがりのエゴ(自我、主我)を助長することにもなりかねません。大きな権力を持ってしまうと、周囲の人たちはこれまで以上に話に耳を傾け、白いモノでも「黒」と言えば黒だとうなずき、つまらない冗談であっても大げさに笑ってくれるようになるからです。

こうした環境によって育まれる悪性のエゴは、確実にリーダーシップをとっていくための活動の妨げになります。企業のトップのみならず、部、課など各組織のトップにおいてもリーダーシップをとっていくために大きな弊害となるでしょう。

組織運営とは

あくまで個人的な見解ですが、組織運営とは実際には、

一人ひとりに重要な使命や目標を与えられた「役割」があり、
その「役割」に見合った適切な「権限」が適量与えられていて、
その「役割」と必要最低限の「権限」を与えられた以上は、
その「責任」を全うしなければならない。ただそれだけのもの。

その活動の成果によって事業や経営が成り立つ仕組みとなっているもの。

これが、様々な活動における組織論・チーム論の本質だと思っています。そこに個人の「人間性」あふれるエゴの介入の余地などありはしません。もちろん、組織が小さいうちはお互いがお互いにフォローしあったりするのも必要かもしれませんが、それも『互いが同意の上で』という原理原則のもとに成り立つものです。

なぜなら、どんなに小さい組織で人手が足りないと言っても、ルールで決めたスコープ(責任範囲、作業範囲、etc.)を逸脱することを個人の感覚や意識だけに頼って行ってしまうと、それが当たり前になったまま組織が大きくなった時に「急に厳しくやれ」と言っても、風土に慣れきった社員たちはその変化に抵抗を示し、すぐさま形骸化してしまうことがわかっているからです。

もしも、みなさんが「就業規則」や「人事考課規定」などを作る立場だったとしたら、どうでしょうか。

 「その人の「人間性」を公平・公正に評価できる採用基準を考えなさい」
 「その人の「人間性」を公平・公正に評価できる人事考課に加えなさい」

と厳命されたら、どのような評価基準をつくりますか?
あるいは基準を持つこと自体が「非人間的」だから、上司の機嫌や感情、好き嫌いに全てをゆだねる自由なルール(無法地帯)にしますか?

普通に考えて、「人間性」なんかに全てを委ね、すべてが許されるようになってしまい、たまたま独裁癖のある人が猫を被っていて、周囲の誰もが気付かずに権限を与えるようなことがあれば、独裁体制や恐怖政治の完成ですよ。

公正、公平であるためには、「人」に依存しない仕組みが必要です。
そのために定量的な評価基準が設けられているのです。

性善説/性悪説どちらか一方で語れない、「人間」と言う不完全な生き物の思考や判断に依存する以上、これは必須条件なのではないでしょうか。


人間的、人間味が加わるとどうなるか

判断や決断には「感情」を含めてはなりません。
ですが、その後の個人的なフォローに「人情」が用いられるのはあってもいいと思います。

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多くの企業がヒエラルキー型の組織構造になっている以上、そこで発揮されるリーダーシップは与えられた「役割」の範疇でのみ実施が可能で、その「役割」を果たさせるための必要十分な「権限」がなければ、誰も言うことを聞かず、効果が出ません。そして「役割」と「権限」を与えた以上は、その活動一つひとつに対して完遂し、成果をあげる「責任」を負わなければなりません。

そして「権限」も「責任」も、与えられた「役割」を果たす…それだけのための必要最低限となっていなければならず、それ以上あっても害を為し、それ以下であっては成果は得られない…とされています。

部下に「役割」を与える時は、必ず、「権限」と「責任」が必要十分であるかどうかを確認しなければ、企業として、あるいは組織としてちゃんと望む成果を出すことができません。

これが組織運営の基本であり、究極です。

では、そこに「人間味」が加わったらどうなるでしょう。

もしも、「役割」を与えているのに、その「役割」にみあった「責任」を果たさない人材に対し、"お気に入りだから"と言う超人間的な理由で、より優遇するような措置をとれば、他の社員はどう思うでしょう?

もしも、ドロドロとした派閥のようなものが形成されていて、より多くの成果、実績を出しているにもかかわらず、全く出していない人の言葉ばかりが重用され、問題を起こすと尻ぬぐいはすべてこちらに回ってくるとなったら、みなさんはどう思いますか?

組織運営の公平性を維持するために「非人間的」であることを止める…と言うことはそう言うリスクも全て受け入れると言うことです。


一度、許容したエゴは止められない

ビール醸造のグローバル企業であるカールスバーグ・グループCEOのセースト・ハルトは、就任初日にアシスタントからカードキーを渡された。それは、20階の奥にある彼の執務室に直行できるよう、エレベーターが他の階には止まらないようにするカードだった。

ピクチャーウィンドウのある執務室からは、コペンハーゲンの絶景が望めた。これらは彼の新しい地位に付随する特権であり、社内における彼の権力と重要性の証だった。

セーストは、その後の2ヵ月を新たな職責に慣れることに費やした。
だが、その2ヵ月の間、勤務時間中はほとんど人を見かけないことに気づいた。エレベーターは他の階には止まらず、同じ20階で働いているのは選り抜きの幹部陣に限られていたので、彼がカールスバーグの他の従業員と交流することはめったになかったのだ。

セーストは20階の奥まった執務室から、階下にあるオープンフロア型オフィスの空いているデスクに移ることを決意した。その変更について尋ねられたとき、CEOのセーストはこう説明した。

「従業員に会わなければ、従業員が何を考えているかを知る機会はありません。それでは組織の実状を正確に把握できず、組織を効果的にリードすることが不可能になります」

記事にも書かれているように、この話は、リーダーシップを執るものがでエゴまみれになっていくリスクを回避するために取り組んだ1つの例です。

ですが、こうしたリスクを許容し、どんどん内部組織を腐らせていく日系企業は多いのではないでしょうか。いわゆる「大企業病」に侵された企業はまさにそれです。

昇進し、地位が向上すればするほど比例して、エゴが膨張していくリスクが大きくなります。エゴが肥大化すればするほど、同じ会社に所属していながら、他の人の姿が見えなくなっていき、いずれ盲目的にエゴに従うだけで「独りよがり」しかできなくなっていきます。

もしも、経営者や幹部層がそうなってしまったら、その企業はもう末期です。抑制の利かないエゴは、物の見方をゆがめ、価値観をねじ曲げてしまうからです。

組織運営に「人間性」「人間味」なんてものを求めると、まず差別が生じ、エゴが横行し、まともな業務・経営は進められなくなることでしょう。断言できます。なぜなら、組織の中に所属する人たちは、

 「絶対に、エゴに流されない」

と言い切れないし、これから採用する人たちを見抜く術もないからです。

あるリーダーに仕事を依頼したら、そのリーダーは自らの仕事のはずなのに、なぜか後輩に「これやっといて」と仕事を丸投げした…なんてことはよくあります。

もしいい意味で「人間性」や「人間味」を要求するのであれば、このリーダーは、リーダーと言う権限を最大限活用し、部下やメンバーの今後のキャリアパスを想定した適切な役割と権限の移譲をおこない、かつ責任を全うするためのフォローをすることが求められるかもしれません。

ですが、実際にはリーダーは「したくない」「楽したい」「部下にやらせておけばいい」と言う人間味あふれるエゴに支配され、「おい、これやっといて」と言って丸投げするだけと言うことも可能になります。もし部下が希望通りの成果をだせていなければ「なんでこんなこともできないんだ!」「(俺様の)役に立たねぇなぁ」と罵声を浴びせるかもしれません。そう言う人間性を見抜けず、リーダーに引き上げてしまえば、このような結果になるのは自明です。

結果的に、個々人の「人間性」「人間味」を尊重しすぎた挙句、その人間性や人間味が悪意に染まってしまっていたら、こうした事件も起こってしまうのです。

自分の中に、一度でも"〇〇しても許される"と言う歪曲した誤解が植え付けられてしまうと、大抵の人は、楽な方へ楽な方へと転がっていくようにできています。これも、先輩やリーダーと言う権限を与えられてしまったことによって発生するエゴの弊害です。

そして、困ったことに「もっと楽したい」「もっと権力が欲しい」「もっと他人をこき使って甘い汁だけ吸っていたい」と渇望するエゴに乗っ取られると、もう自らを御する自制力は崩壊するだけです。

人間は、一度「既得権益」を手にすると元には戻れない生き物ですから。

「人間性」には良い面も悪い面も、かならず両方存在します。そして、それは採用においても、昇格においても、赤の他人が正確に見抜くことはできないものです。


適切なルールや基準は人間味に溢れている

ルールや基準などを「非人間的だ」と言う人は、考え方が根底から誤っています。

ルールや基準なども人間が作ったモノです。
人間がある「願い」を込めて作ったモノです。

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その願いとは、

 「(仕事の進め方について)誰も悩みませんように」
 「(仕事の結果について)誰も失敗しませんように」
 「成功には成功した人への適切な見返りを」
 「失敗には失敗した人への適切な反省を」
 「一人ひとりが適切な仕事を行えますように」
 「属人的になりませんように」
 「一部の人だけが苦労するような歪な組織になりませんように」

と言ったもので、それらを言語化し、体系化したものこそがルールであり、基準です。そんな願いが詰め込まれたモノが『非人間的』であるはずがありません。

ルールや基準などを「非人間的だ」と言う人の多くは、自分にとって、あるいは自分のエゴにとって都合の悪いルールや基準を撤回させたいだけなのです。言い換えれば

 「自分にとって都合のいい状態にしたい」

と言う人間味あふれたエゴを通すために、わざわざそれらしい言い訳をこねくり回して、ルールや基準と対峙しているにすぎません。ひょっとすると、一番組織のことをまともに考えていない人たちなのかもしれませんね。

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