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何に対して貢献するか、どのような貢献ができるのか

みなさんはそんなことを考えたことがありますか?

 「何ができるか?」
 「何が得意か?」

ではなく「何に対して、どのような貢献が、どれほどできるのか?」と問われた時、みなさんは"具体的に"かつ"定量的に"説明できるでしょうか。

世の中に対してでなくてもかまいません。

今いる会社、今いる組織、今いるチームに対してでもかまいません。どれほどの貢献ができるのでしょう。自分が「できている」と思うだけでは意味がありません。他人からどう思われるかも関係ありません。ただただ厳然たる事実としての貢献度で示せますか?

たいていの場合、すべての情報がオープンになっていることはまず無いため、具体的に測定することは非常に難しいですよね。私もそんな客観的な数値、数年に一度くらいしか出せません。

「会社が」「組織が」「チームが」ではなく「自分が」と言われると、完全に客観視することは難しいのです。

「成果をあげる人とあげない人の差は、才能ではない。
 成果をあげるかどうかは、いくつかの習慣的な姿勢と、
 いくつかの基礎的な方法を身につけているかの問題である。
 しかし、そもそも組織というものが最近の発明であるために、
 人はまだ、それらのことに優れるにいたっていない」

P.F.ドラッカーの著書、「プロフェッショナル の条件」だったか、「非営利組織の経営」だったかに書いてあったと思います。

個人で成果をあげることは可能です。

そして、その方が目的に対する貢献度の測定はしやすいでしょう。かつての個人で一旗揚げる時代であればそれでよかったかもしれません。ですが、多くのビジネスマンがそうであるように、組織的活動によって個人では為しえないような大きな成果をあげることが求められているサラリーマンの場合、その組織においていかほどの貢献ができているのかを測定することは非常に難しいのではないかと思います。

そしてサラリーマン組織であるからこそ

 「優秀な人をベースにした仕事の仕方になることはない」

わけです。そんなことをしてしまったら平均値未満のスキルしか持っていない人たちは、目標通りの成果をあげることができなくなるからです。私を含め、世の中の企業はベテランから新人まで幅広い年齢層、経験層の人材がいます。だからこそ大抵の仕事は「誰でもできる」仕組みになっているはずです。

必要最低限の貢献

さすがにベテランから新人まで誰でもと言うのは少ないでしょうが、

 部長クラスであれば、どの部長でも
 課長クラスであれば、どの課長でも
 係長クラスであれば、どの係長でも
 主任クラスであれば、どの主任でも

 1年生であれば、どの1年生でも
 3年生であれば、どの3年生でも
 5年生であれば、どの5年生でも
 10年生であれば、どの10年生でも

 技術部であれば、どの技術部でも
 営業部であれば、どの営業部でも
 総務部であれば、どの総務部でも
 経理部であれば、どの経理部でも

そういった組織的構造に則してグループ分けしていけば、同じ条件下の同じ層では同じように「誰でもできる」部分が似通ってくるはずですし、似通っていないと困ります。業界ごと、企業ごとに多少の差はあれど、ほぼほぼ似通ってくるはずです。そうでなければ対外的に自らの自己紹介が難しくなるからです。

名刺に「部長」という肩書きが書かれていれば、取引先の相手は一般的な『部長』にふさわしい対応を求めてきます。あくまで取引先の部長と同じレベルの部長職だと思って接してくるでしょう。派遣の場合、スキルシートなどで経験年数を見られたら「この経験年数なら、これくらいの常識は知っているだろう」と思われていると思います。

互いに共通認識できる肩書だからこそ名乗っているわけで、

 「部長って肩書ですけど、一般的な企業では主任相当なんですよ、エヘヘ」

なんてことはまずありません。

だからこそどのような業界の、どのような会社の、どのような業務であっても、肩書が同じであれば企業固有、業界固有のモノでない限り、殆どは「誰でもできる」ようになっているはずです。

初見で知らないことが多くても『説明されれば』『目の前で見せてもらえば』『知らないことを知る努力をすれば』おそらくは、得手不得手に関係なく誰でもできる仕事が多いはずです。長い時間をかけて、その組織でも新人や中途採用者の面倒を見てきたのだと思います。だからこそそう言う役割定義になっているのです。

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だからこそ、ドラッカーは「成果をあげるかどうかは、いくつかの習慣的な姿勢と、いくつかの基礎的な方法を身につけているかの問題である。」と言っているわけですね。その会社、その組織において基礎的とされる部分を知り、理解し、習慣的に日々こなしていれば身につけられると言っているのです。その姿勢こそが重要だと言っているのです。

全員がまったく同じ…と言うわけではないでしょうが、その人のスキルレベルにあわせて「これやって」「あれやっといて」といって、会社が、あるいは組織が指定する仕事とは、それをするだけで収益があがるようになっているはずです。つまり、

 「言われたことを、言われた通りに実施し、期待された成果をあげる」

ことで、必要最低限の貢献ができるということです。私は、新人教育で「まず、そうなりなさい」と説明します。と同時に、「これは守破離の"守"であり、最終的には、この殻に閉じこもることを目標としてはいけない」とも説明しています。

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少し古い考え方ですが、昔は「3年で中堅、5年で一人前」と言われた時代がありました(アレ?当時の会社の中でだけの話だったのかな?)。

今では世間の変化の流れ的にもう少し短いスパンで成長を求められているような気がしないでもないですが、実際に日本企業の中を覗いてみると、30代でも「若手」と呼ばれているシーンを多く見かけます(IT業界だけに限った話なのかもしれませんが)。

一流の仕事ができるようになるには、生まれつきの才能などいらないというのだからうれしい限りです。実際、世の中で一流と呼ばれる人たちに生まれつきの共通点なんてものは存在しません。どんなにデータを集めても、発見できなかったのです。

必要なのは習慣的な姿勢基礎的な方法を学んでおくこと、それだけです。

それだけで十分というのならば、誰でも身につけられますよね。新人と同じく、まずは「言われたことを、言われたとおりに実施し、求められる成果が安定して提供できるようになる」だけで最低限度の貢献は満たせます。


それだけで終わりじゃない

ですが、ドラッカーの言葉にはここで「しかし」がつきます。

しかし、そもそも組織というものが最近の発明であるために、
 人はまだ、それらのことに優れるにいたっていない

「組織」的な活動それ自体に、私たち自身がまだ慣れていないというのです。

18世紀の産業革命の後、大きな工場などが乱立し、大勢の人間が同じ場所で1つの成果をあげるために一緒に働くようになりました。それまでに大勢の人間が1つの成果をあげるために組織的な活動ができたのなんて、国の事業として行われる「土木」、「建築」、そして「戦争」だけです。それ以外は、基本的に個人活動または個人活動の集合体でしかありませんでした。

産業革命のなかでジェームズ・ワットが実用蒸気機関を発明したのが1776年、それからわずか 240年ちょっとです。

いかに習慣的な姿勢といっても、属人的であることが当たり前だった人たちには「継承」「育成」の概念が乏しく、240年経った今でも属人化を好む人たちの周りでは人類の習慣として身につくようなことはありません。いかに基礎的な方法といっても誰も教えてはくれないので、多くの新人や若手と呼ばれる人たちにとっては知る方法がありません。

ネットで方法を知っても、それが現場の因習とマッチングするものかどうかはわかりませんし、結局「門前の小僧、習わぬ経を読む」形式を強制されるのがオチです。それに「じゃあ、学生時代に身につければ?」と、ちょっと発想できる子なら考えてしまうかもしれませんが、そもそも学校の先生は組織で働いた経験がありません。経験したことが無いことを教えろと言っても、それは無理です。

では、

 「習慣的な姿勢」を養う土壌がいつまで経っても用意されない
 「基本的な方法」を教えられる人がいない、教えようともしない

ような現場ではいったいどのようなことが起きているのでしょう。答えは簡単です。社員個々人は、

 個人技能を向上する努力

をするようになります。個人でできることを増やし、伸ばせば、組織におそらくは貢献できるであろう…と考えるからです。まぁ個人オンリーでできることと言えばそれくらいしかありません。IT企業で言えば、主にプログラミングやツール、API類などへの理解を深めることになります。

個人技能だけを突き詰めて他の人から賞賛され、期待されるまで行けば、それはそれですごいことだと思います。ですが、残念ながらこうした個人技能は所詮、組織的活動をするためのただの「道具(ツール)」です。ビジネスや組織のニーズを満たし、実現するための手段の1つでしかありません。その道具を具体的に組織の中でどう活かすのか?と言う観点が漏れていては、適切に取り扱うことはできないのです。

 よく切れる包丁(技術、道具)を手に入れても、
 それを使う板前の腕(組織活動、マネジメント)が未熟であれば、
 美味しい料理はできるわけがないのと同じ

です。たとえば、あなたは

 「包丁で捌くことだけなら誰にも負けない」

技術を身につけたとします。ある時、現場で「包丁で捌く仕事」「火を入れる仕事」「味付けをする仕事」「盛り付けをする仕事」に分業し、無理やり4人分の仕事を捻出したとします。

あなたは「包丁で捌く仕事」を任されたとしましょう。あなたが捌いた食材は、おそらくとても美味しそうで、最適な捌かれ方になっているかもしれません。人一倍いい仕事ができることでしょう。けれども、他の仕事を任された人たちが適材適所できていなければ、最終的に出来上がる料理は、顧客を満足させられないかもしれません。

もしも、あなたが「味付けをする仕事」を任されてしまった場合はどうでしょう。「包丁で捌く仕事」しか知らず、捌かれた食材がどう扱われるかなんて気にもしなかった人がいきなり他の仕事を回されたらどうなるでしょう。

同じことが職場でも行われます。「ヒト・モノ・カネ・情報」と言う4大管理要素をきちんと見ようとしないリーダーや上司のおかげで、せっかく研ぎ澄まされた道具をふるう機会もないような組織運用であれば、それは最高の仕事となるでしょうか。

このように個人技能を磨くこと自体が悪いことはずもありませんが、それが組織のニーズを満たす仕事につながるかどうかは別問題なのです。

せっかく個人技能を向上する知識や技術を身につけても、まず初めに組織を通じて成果をあげる能力を向上させておかなければ何の役にも立ちません。

ですが、会社の多くは

 「習慣的な姿勢」を養う土壌がいつまで経っても用意されない
 「基本的な方法」を教えられる人がいない、教えようともしない

のです。


組織が要求する恒久的なニーズは「非凡な成果を、平凡な人たちの集まりによってあげられるようになる」ことです。これこそが、組織に働くものが応ずべきニーズです。多くの仕事に対して「説明できる」「教育される」あるいは「手順書(マニュアル)などがある」と言うのは、そうした目的を達成するためです。

尖った個人技能に依存するのではなく、こうした組織的取組みが用意されていて、そうなるよう貢献できていれば、ビジネスモデルが変化しない限り、半永久的に組織のニーズを満たすことも可能になるでしょう。

このことが理解できていない経営者、管理職のもとでは、たまたま人材や顧客に恵まれ、景気のいい時にそこそこの収益、そこそこの成長をあげることができるかもしれませんが、時間が経過すればするほど組織は空洞化していき、いずれちょっとした歪みによって簡単に破綻してしまうことになるでしょう。

2018年に倒産した会社の平均寿命が約24年ほどだと言うじゃないですか。これらの中には、こうした空洞化させた企業も多かったのだと思いますよ。


黒字リストラは組織のニーズを満たすのか

昨今、流行であるかのように #黒字リストラ が進んでいるようです。

若手、あるいは優秀な者に資源を回す…などと言っていますが、これはネットでもささやかれているように、ただ労働人口が減るだけで、意味のある取り組みにはなりません(まぁ、いてもいなくても変わらない人は、人件費のムダなので、リストラされてもやむを得ないでしょうけども)。

ただ、残った人たちの給料を上げればいいと言う問題ではないのです。

組織のニーズに貢献できる働きができるか否か、どうすればそう言った働きができるのか、と言う観点とリソース投資が不足しています。そもそも「非凡な成果を、平凡な人たちの集まりによってあげられるようになる」ことが組織の恒久的なニーズであるのだとすれば、リストラ(解雇)ではなく、そういった平凡な人材に非凡な成果をあげさせるような体制や取り組みこそが必要になってくるのではないでしょうか。

と言うか、リストラ…Re・structuring(再構築)というのであれば、ただ解雇するのではなく、ただ配置転換するというのではなく、なぜ収益構造から一つひとつの業務の見直しまですべて行おうとしないんでしょうね。

「問題」なんてものは、原因があって初めて起きるものなのだから、それを見直せばいいだけの話なんですけどね。

重要なのは、組織の中で

 自らは「何に貢献する」ために存在しているのか?
 その貢献ができるための基本的な方法を身についているのか?
 身につけるためにはどうすればいいのか?

と言う視点です。平社員であっても管理職であっても、もちろん経営者であっても、この観点はかわりません。自らの組織の中に置かれたポジションを理解し、

 「これが私の仕事だ。ほかのことは邪魔でしかない。
  この本来の仕事に集中するにはどうしたらよいか。
  仕事の仕方に問題があるかもしれない。
  もっとよい成果となるよう、仕事の仕方を変えられないだろうか」

という考え方、姿勢になっているでしょうか。結局、最も成果を上げるには何に貢献するか/しなければならないかを考えなければならないということです。組織内における組織のニーズを知る努力をする…ということです。

そして次に、自らは何を最も貢献できるかを考えなければならないということです。すなわち自らの強みを知ると言うことです。強みに合致していれば、「姿勢」と「方法」をもう一度見直せば、今すぐにでも成果が出せるでしょう。強みと合致していなければ、「姿勢」はともかく「方法」を身につける努力をしなければならないでしょう。

たったそれだけのことなのです。


IT企業、なかでもSIerに紐づく多重下請け構造の中では「開発」さえできれば、「ビジネス」できなくてもいいやと割り切って、「人」を「駒」・「道具」として活用しようとする企業やマネージャーも少なくありません。

だからエンジニアには「開発」としての流れを教えることはあっても、開発を包括した「ビジネス」としての流れや仕組みをきちんと教える上司と言うのはなかなか見かけなくなってしまいました。少なくとも、今いる会社では皆無と言っていいほどいません。

SIer、あるいはSIerのマネージャーから「道具になり切っていればいい」と言われ続ければ、そう言う姿勢になっていくのは当たり前ですよね。それ以上の成果をあげても報酬が変わるなんてことはありませんし。

結果、ある年齢を境に、急に面倒見のいいエンジニアから「リーダー」や「マネージャー」に抜擢された人たちは、ビジネスを知らず、お客さまのビジネス背景を知ろうとする姿勢も持たず、ただ「作る」「売る」だけの観点しか持てなくなっていきます。それだけを命題とし、それだけしか求められなかったのですから、そう言う人材として育つのは当然です。

彼らはたしかに、そのスナップショット(切り取った一瞬)だけを見れば、収益に対しては貢献しているかもしれません。ですが、組織的な厚みの成長度合いとしてはどうでしょう。

ビジネスを知らないから世の中の流れを理解できない。
収益しか要求されなかったから、収益に直結しない活動に能動的になれない。
自分がそうされてこなかったから、他人を育成する姿勢が持てない。
技術が手から離れると、ただ根性論を振りかざすだけしかできない。
ただデキる人に仕事を押し付けるだけの組織にしかなれない。

こうやって、薄っぺらくなってしまった組織では、収益構造の柱であった優秀な社員を去らせてしまい、優秀になる素養のあった社員を疲弊させてしまい、そして転職も困難な貢献できない人材ばかりが残っていって、組織が空洞化していくのです。

延べで見れば、おそらく数億~数十億程度の顧客クレームやちょっとした損害賠償請求トラブルなど比にもならないくらい、はるかに大きな経営問題となると思います。他愛のないことに見えて、実は他の何を置いても優先すべき、すごく大事なことなのだと思います。

部や課といった何十人もの社員、紐づく外注まで含めると、年間何百人月になるかわからない人的資源の損失、あるいは不良在庫を生み出しかねないということです。しかも、一度そう言う流れ(社内風土/組織内風土)ができてしまうと、急には改善、回復できません。

既得権益に対する意識改革と言うのは、不治の病、進行性のウィルスと同じで、一度感染してしまうと、完璧に根治するのはほぼ不可能です。

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人類が一度「火」を手に入れてしまったら、もう二度と手放せなくなった…と言うのと同じです。今までの仕事の流れを急に「1からすべて変える。言うとおりにしろ」と言われても、反発心しか出てこないでしょう。

だからこそ、組織を新設する時や、新しく部課長などを配置する時は、組織にどう貢献できるのかを真剣に考えられる人材が良いでしょう。そもそも、常日頃からそう考えられる人材であれば、多少実力が低くとも、時間が経てば、組織のニーズを満たせるだけの「基本的な方法」は身につけられているはずです。

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