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数字の代わりに文字を使う本当の理由

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

という言葉は有名ですね。これは、ドイツ帝国の初代宰相オットー・フォン・ビスマルクが、次のように語った言葉を格言としてまとめたものだと言われています。

「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。
 私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、
 他人の経験から学ぶのを好む」

たしかに、人が実際に経験できることは限られていますし、経験によってしか学べないのなら、最初はたいてい失敗することになります。実際に経験をすることの大切さを否定するつもりはありませんが、なかには取り返しのつかない失敗になり、学ぶどころではない事態になってしまうこともあるでしょう。

そんな失敗をすることなく、多くのことを学んでいくためには、やはり他人の経験(すなわち歴史)から学ぶことはとても大切です。経験則は自信にする力はあっても、所詮自分一人分の狭い知見でしかありません。

膨大な分析の上で最適解を得るためには、多くの経験則が必要ですが、人一人ですべて経験することは不可能です。

だから、「組織知」が必要なのです。いわゆる

 成功事例、失敗事例という「情報」の共有(知識の集大成)

です。おそらくは多くの企業が最も苦手にしている分野の1つです。多くの人が、「個人の中に」「関係者のみ」「ごくわずかな最低限の人にのみ」こっそり共有していることが多く、広く知られるような環境というのはまだ殆ど用意されていないのが実情です。

そう言う意味では note のような、個人知を広く色々な人と共有しようという環境があるのはとてもうれしいですね。私も長年、企業内で同じような広報活動をしてきましたけど、結局、誰も興味を持たなかったみたいで、組織知になるまでには至りませんでした。

たとえば、どこかのプロジェクトで表彰されるような成功をおさめても、そのノウハウは他チーム、他部署にほとんどが展開されません。顧客の機密情報にかかることもあるので、すべてをオープンにすることが困難なのは理解していますが、それでも開発の進め方や、リスクへの対策、問題の解決方法など、エンジニアリングやマネジメントのスキルなどは、整理して共有することが可能なはずです。

他にも、苦労しているプロジェクトやトラブルが起きているプロジェクトの情報は、よほど隠し切れなくならない限り、公の場で公開されることはありません。だから、大問題になるまえに支援できそうなことであっても、大問題になってからでないと公にしないので、収拾がつかなくなっていたりします。

そんなに「失敗を起こす程度のプライドが大事なのでしょうか。どうせなら、「失敗から迅速に立ち直るために、協働する体制を築き上げられる」プライドの方がよくはないですか?

インシデントなどの事故情報についても、"起きた"ことは展開されたとしても、詳細は一切伝わってきません。だから、知らない「人」「組織」は再発防止対策ができず、同じようなインシデントが他方でも引き起こされるのです。

プロジェクトの中で「バグ」や「不良」の管理をしていても、その原因、対策、結果が他チームや他部署に公開・共有されることはありません。していれば、同じ問題を起こさないかもしれないし、仮に起きたとしても1から調査する必要なく、すぐに解決できたかもしれないのに、です。

もしも、多くの経験、多くの実績を、データ化して蓄積し、あまねくすべての社員間で共有できるようになれば、すなわち「歴史から学ぶ」ことができれば、その膨大な『(成功も失敗も)他人の経験』が、組織の成功を飛躍的に伸ばすことになるでしょう。

この手の領域は、おそらく今後AIの得意分野になっていきます。いわゆる

 データを蓄積し、解析し、過去の対策実績から最適解を抽出する

と言う仕組みは、データさえ充実すれば、今すぐにでも構築できるかもしれない仕組みだからです(まぁ、そのデータを蓄積するところで、人間が面倒くさがってしまい、技術の進歩を邪魔するのでしょうけど)。


しかし、なぜ賢者は歴史から学ぶことができるのでしょう。

ただでさえ変化のスピードが著しい現代社会においては、少し前の常識がいまや非常識、ということは日常茶飯事です。年齢の離れた上司や先輩の意見を「いまは時代がちがうよ……」と、内心疎ましく思った経験はきっと誰にでもあると思います。

でも、それでは「賢者」になれません。

たとえ時代がちがっても、国がちがっても、あるいは自然や宇宙の歴史からですら、学べることはきっとあるはずです。歴史からいまを生きる私たちが学ぶために必要な力、すなわち「一般化する力」です。

オブジェクト指向を理解している人流に言わせれば、

 "抽象化"・"汎化"

と言えばわかるでしょうか。

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少し具体的に言葉にするなら、"本質を理解する力"と言うことになります。数学が文字式を使うのも、問題を一般化するためであり、それは数学の最も根源的な目的なのです。同じように数字や図形を扱うのに、中学に入って科目名が「算数」から「数学」に変わるのは、単に大人びた雰囲気を醸し出すためではありません。算数と数学はそもそも目指しているものがちがいます。

算数は、むかしでいう「読み/書き・算盤」の「算盤」にあたります。

「今日のセールは3割引!」や「日経平均は1万7357円」などの意味がわかったり、4人前のレシピで3人分の料理をつくるときに分量を換算できたりする能力は、生活に密着しています。

こうした事柄について、すばやく正確に答えを導くことができなければ、社会人としてはしばしば苦労することになるでしょう。算数では、解き方がわかっている問題を、数字を変えて反復することが重要視されているのはそのためです。

一方で数学は、まるっきり苦手だったとしても、基本的な生活が立ち行かなくなるということはふつうありません。実際、社会人になってから2次方程式を解かなくてはいけないシーンや、ベクトルの内積の計算ができて得することは非常に稀です。

じつは、数学で学ぶ方程式や関数、ベクトル、数列などは、すべて"ある能力"を磨くための材料でしかありません。方程式や関数、ベクトル、数列などはいわば手段であり、道具です。だから、その手段や道具を使う必要に迫られない限り、全く使う機会に恵まれないのです。

この"ある能力"とは、一般的な生活の上では無くても困ることはありませんが、あれば人生を主体的に生きることができますし、私たちのようなIT業界では重宝しますので、文系・理系問わずすべての人が身につけておきたい能力と言えるでしょう。

その"ある能力"とはズバリ、「論理的思考力!」…ではなく、

 未知の問題を解く能力

です。

数学で習う内容を仕事に使う人はごくわずかなのに、すべての先進国で数学は必須科目になっています。数学を学べば、まだ誰も解いたことがない問題に対しても、その解決策を自分で見つけ出す能力を磨けるからです。

論理的思考力は、そうした未知の問題(まだ解かれていない問題)を解くための1手段でしかありません。ですから、中学になって「数学」を学びはじめたとき、いちばん新鮮に感じることは

 文字や文章を多く使う

と言うことではなかったでしょうか。

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算数の頃には「文字」と言えば、+、-、×、÷、=などの演算記号くらいのものでした。個人差はあると思いますが、多くの人が数式のなかで文字を使うことや、説明文を書き加えることは新しく感じたのではないでしょうか。

方程式1つとっても、xやyと言ったアルファベットを多用します。

プログラムっぽく言うなら、『変数』あるいは『定数』ですね。こうした文字で値を代用するからこそ、仮説を説明することができたり、それを証明することができるようになっていくのです。

数字の代わりに文字を使うことによる恩恵はこれだけではありません。

文字を使って表すことができれば具体的な数字よりは、はるかに本質が見抜けるようになります。たとえば、次の数字の羅列を見てください。

3、8、15、24、35、48、63、80、 99、120 …

さて、これらの数字に共通する性質(=本質)がわかりますか?

すぐにわかった人は相当数字に強いか、直観力に優れた人です。自信をもってもらっていいと思います。ふつうは、これらの数字の本質をつかむことは簡単ではありません。特に数学的なとらえ方が苦手な人には、難しいと感じる傾向が強いようです。

じつはこれらの数はすべて、「ひとつとばしの数字の掛け算」になっています。

 1 × 3 = 3
 2 × 4 = 8
 3 × 5 = 15
 4 × 6 = 24
  ・
  ・
  ・

とはいえ、言葉で説明されてもわかりづらいものです。

そこで文字式の登場です。先ほどの数字の羅列の本質は、文字で表せば、

 n × (n + 2)  ※nは整数

と説明することが可能になります。こうして文字式で一般化されると、具体例からは見えてこなかった羅列の「本質」が見事に、そして端的に見えてくることわかると思います。数学の本分(目指すところ)が、

 「未知の問題が解けるように準備をしておこう」
 「物事の本質を明らかにしよう」

という2点にある以上、数学が数式のなかに文字を使うのはいわば必然となるのです。

数学に限らず、未知の問題に備えたり、本質を捉えたりすることは、IT業界で生きるみなさんにとっても大切な能力だと思います。まぁ少なくとも

 作った製品が、本当に世に出しても「問題が無い」と
 作った本人が作成者としての責任において証明できるか否か

と言う観点から言えば、私の口からは必須と言わざるを得ません。

もしも、これらの力を「数学抜き」で獲得するにはどうしたらよいのでしょう。

それには数学が文字を使うことで目指していること、すなわち「一般化」を、実生活のなかに積極的に取り入れる必要が出てきます。ありとあらゆるものを、抽象的に捉えてみるのです。一般化とは論理学にて、

「さまざまな事物に共通する性質を抽象し、
 1つの概念にまとめること」(大辞泉)

です。言い換えれば、

 「要するに、〇〇ってことだよ(でしょ?)」

という表現にまとめて説明できるようになると言うことです。それができるようになるためには、それぞれの具体例から一定の距離をとって対象を俯瞰する必要があります。一般化する力は「俯瞰する力」といいかえることができるでしょう。

この力は簡単に身につくものではありませんが、身近な事柄を使って練習するうちに、必ず磨かれていきます。

たとえば、「バレンタイン」「忘年会」「節分」を1つに括ってしまえば、

 「冬の行事」

と共通化できます。

「地下鉄」「バス」「タクシー」をまとめてしまえば、

 「公共交通機関」

とすることができるでしょう。

もしも、これから移動する際に、「タクシーでなければならない」なんて縛り指定が無ければ、

 「要するに、時間内に目的地までたどりつければいいんだから、
  電車でも、バスでも、もちろんタクシーでも、
  なんだったら前泊でも、いくらでも手段は検討できる」

本質さえ押さえていれば、こうした柔軟な発想も可能になると言うことです。これができない人は、必ず目先のことにこだわります。こだわり続けます。こだわり続けた結果、頭が固すぎて「ダメな奴」「融通が利かない奴」と言うレッテルを貼られます。

よく起きるのが

 「〇〇さんが、これでって言ったんで…」

と言って、目先の手段にこだわりすぎて、柔軟な思考や行動ができず、遅延やチームプレイを乱すような問題を起こすケースです。実際にその○○さんに聞いてみれば、あくまでも具体例の1つとして取り上げただけで、結果が同じなら、手段は問わないつもりだった…と言うのは良くある話です。

私だったら

 「絶対にこれじゃなきゃダメっすか?
  要するに、期待通りの結果ができればいいんですよね?
  これに慣れてないんで、他の方法使ってもいいです?
  少し進めたら持ってくるんで、良いか見てもらっていいですか?」

とさっさと確認します。仮に指定されたものを使うとしても、念のために他の手段に切り替えてもいい許可はもらっておきます。自分の中にあるノウハウの中で、最も得意としていて、最も慣れていて、最も効率的と思える手段こそが、最も早く終わる可能性が高いことを知っているからです(でも、他の方法も修得したいので、時間が許す範囲で新規のやり方もやってみます。意固地になりたくないし、新しいスキルを修得できるかもしれないし)。

「数学抜き」でも本質を明確にすることは、こうして養えます。

一般化する力がついてくれば、個々の具体例からその本質を抜き出すことができるようになります。そして、その本質は、私たちが人間である以上、どんなに科学技術が進んで世のなかが様変わりしようとも、そうそう丸ごと変わるものではありません。

また、自然の摂理のなかにも、人生を生きるうえで有益な「本質」があります。

賢者が、自らの経験だけでなく、歴史からも多くを学ぶことができるのは、「一般化」スキルによってこれらの本質を紡ぎだし、過去の異なる事例からでも、自らの環境に置き替えて応用する努力を怠らないからにほかならないのです。

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