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須田光彦 私の履歴書31

宇宙一外食産業が好きな須田です。


16歳から夢見ていた独立は、あっけなく実現しました。

いくつかの偶然と必然が重なり、私の夢はあっけなく実現となってしまいました。

多くの計画は、その予定していたスケジュール通りに進行しないことが多々あります。
上京するときに、18歳ながらに5ヶ年計画を立て、5年ごとにステップアップしていけば、遅くとも33歳には独立になるだろうと考えていました。

でも、現実は上京して10年目に、独立を果たしてしまいました。

30歳までにと思っていれば、遅くとも32歳33歳までにはなんとかなるだろうと考えていました。
計画が多少後ろにずれたとしても、万事OKと思っていましたが、自分が思っていたよりも実力もついていました、準備はもう整っていました。

2年も前倒しの、独立となってしまいました。

就職できなくて、多くの設計事務所を回っている間に、多くの設計者であり経営者の方にもお目にかかりました。
面接の席上、手掛けてきた物件も描いてきた図面も見させていただきました。

それらを見ていくうちに、自分の実力を知ることとなったのは事実です。
24歳から28歳まで足掛け5年、坂田さんの下で学ばせてもらったこと、経験させていただいた案件の、そのどれもが出会った多くの設計者の物件よりも内容的に上回っておりました。

就職活動中にも、このまま独立してはという、アドバイスをしてくれた方もいらっしゃいました。
その時は営業を勉強したい思いが強く、まだまだ学ぶことがあると頑なに信じていたため、耳を傾けることは出来ませんでした。

ところが、先輩のデザイナーが困っているので、助けるつもりで引き受けた仕事がきっかけになり、独立を果たしてしまいました。

それも、学ぼうと思っていた営業が、必要のない形で実現します。

そのおかげで、たった3年で年商1億に届くまでに到達します。

通常、下請けの設計者は、設計料が極端に安いのが一般的です。
でも私は、初めからいくら欲しいのかを聞かれ、その希望額を伝えて、そこに元請の利益を乗せて見積もりを提出し、クライアントにご納得いただいて受注していました。

一般的な、元請が受けた金額に対する、低い割合の設計料ではありません。
ですから下請けという意識は全くなく、常に設計業務は自分がメインであり、仕事の流れの一つに元請がいるという感覚でした。

この感覚はその後もず~っと継続します。

退職間際に担当したカラオケルームが、一部で高い評価を頂きました。

一部とは、世にカラオケを生み出した有名な会社から独立した方々です。
カラオケを発明した会社は神戸が本社でしたが、東京の足掛かりは独立した方々に任せていました。

この方々のお世話になって、カラオケ店を大量に設計することになりました。
先輩デザイナーからは飲食案件が、カラオケラインからはカラオケルームの仕事が舞い込んできました。

1年目は設計料だけの売上で、2年目からは小さな工事も獲っていきました。
3年目は設計と工事をセットで受注していました。

独立後3年で倍々に増えていった年商ですが、それに伴って仕事量も膨らみ経費も膨らんでいきます。

3年経ったころは年商1億に到達するまでになりましたけれど、生活自体は楽になることもなく、仕事に追われていつもイライラしていました。

夢見ていた独立後の生活と、現実は大きく違っていました。

当たり前のことで、売上が上がるということは、仕事量も増え抱える責任も大きくなるということです。
今ネットの広告で頻繁に目にする、独立するとノートパソコン1台で自由な時に自由なスタイルで仕事ができるなどということはありませんでした。

実際は自由を手に入れたつもりが、仕事に黙殺されるようなことも、併せて飲み込む度量も要求されます。

上記のこともあり、私は4年目でスランプを迎えました。


キッカケは税金です。


事業開始2年間は税金が免除されます。
事業を倍々で拡大していった3年目の私は、税金という現実を知ります。

順調に伸びていった事業ですが、3年目の決算の時に大きな税金の支払いが待っていました。
当時お付き合いしていた会計事務所の社長に、売上と支払いの管理と税務のことなどもお願いしていました。

実はまだ、この時に個人事業主で事業を行っていました。
年商の増え方を考えると、今なら、遅くとも2年が経過した段階で、法人化にすべきと判断できます。

当然そうすべきでしたが、当時の私も、お願いしていた若い会計事務所の社長も、法人化を考え付くこともせずにいました。

その結果、3年目に大きな税負担がのしかかってきました。

11月の段階で今期の売上が読めます、すると税額はどうなるのか会計士に聞いていました。
それと同時に、12月末で協力業者に買掛金を全額支払った方が良いのかも聞いていました。

遅かれ早かれ支払う買掛金です。

それならば、年内に支払った方がこちらも相手先にも良いだろうと考えていました。
その意図も会計士に伝えておりましたが、彼はそこまで真剣に捉えていなかったようで、決算を迎えて時に「税額はこうなりますので、振り込んでおいてください」と、突然言われました。

それまで何度も税額を確認していたにもかかわらず回答がなく、買掛金の支払いの件もぞんざいに扱っていたわけですが、税金の確定に関してFAX1枚で報告してきました。

勿論税金は支払いましたが、結果的に、この1年間で1番利益を上げたのは国でした。

税金を支払った段階で、手元に残った金額は微々たるものでした。


この1件があり、すっかりとモチベーションが下がってしまいました。


仕事への意欲も低下し、独立後の想定以上の多忙による疲労も重なり、4年目の年商は3,000万にまで下がってしまいました。

1人で経営している設計事務所で年商3,000万は悪くない数字というか、良い方の数字です。

でも、会社勤めをしていた時から扱ってきた金額のイメージと、倍々に成長した事業を考えると、年商が一気に前年の30%にまで減少したことがショックでした。


それよりも、仕事がない時間が多くて、12年間毎日仕事に追われて、目標を実現するために爆走してきた私にとっては、この暇な時間が一番の地獄でした。

このころは既に板垣さんはグラップラー刃牙の連載をスタートしていました。
暇にかまけて、毎週チャピオンを買って読むが唯一の楽しみでした。

ついでに、太りました。

29歳で結婚していましたが、独立3年目には家の近所に事務所を借りていましたが、お昼には家に帰ってランチを食べます。

4年目には、午前中何も仕事をすることもなく、朝食を食べてすぐにランチを食べます、そのまま夜も飲んでしまいます、すると、一気に太ってしまいました。


最悪です、仕事は無い、お金もない、家庭はある、身体は太ってしまう、自己イメージはどんどん下がっていきます。

精神的に参ってしまった4年目でした。


でもその状態にも、ほとほと嫌気がさし「こんなことを経験するために独立したわけじゃない! 何をやっているんだ、俺は!」と、やっと気づきました。

気持ちを入れ替えて、昔の知り合いに電話をかけてみました、すると、仕事がちょこちょこと廻ってくるようになりました。

私は、会社を辞めるときに、社長と約束したことがあります。

それは、会社勤めの間に知り合ったクライアントには絶対に連絡をしないこと、ここで書いた図面は持ち出さないこと、この2点を約束していました。

ですから一般的に多い、独立当初は会社勤めをしていた時のクライアントを引き継ぐということを、していませんでした。

独立後に新しいクライアントを0から構築していきした。

バブルも崩壊し日本経済がどん底の頃です、新しいクライアントも出店計画を中断しています。
1995年には阪神淡路大震災もありました、そんな5年目の時です。

それでも、4年目に3,000万まで落ち込んだ年商を、7,000万まで増やしました。
又、年商を倍増させました、これで3回目です。

この時から、年商を倍増させるのは簡単だと思うようになっていきます。
これはクライアントにも伝えています、年商の倍増は難しいことではない、可能なことだと。
事実私は何度も経験しています。

6年目は年商をキープしようと、考えていました。
また、倍増させると同じ事の繰り返しになるなと、そして自分自身が死んでしまうと思っていました。

死んでしまうとは、一つは多忙さに黙殺され本当に命を落としかねないこと、もう一つはバーンアウトになってしまうことです。
4年目は完全にバーンアウトでしたから、それを回避しようと思っていました。

3年目までは1人3交代で、働いていました、1日20時間以上働いていました。
明るいうちは現場を見て、打ち合わせをして、業者さんに指示を飛ばして、夜から図面を描きだして、朝方までに完了させて、また現場に飛んでいくという生活でした。

睡眠時間は3時間取れればよい方で、ほぼ徹夜も連続しましたし、ドラフターの上で寝落ちしたことも何度もありました。
顔に鉛筆の線が転写されたことが、何度もありました。

私が倒れるのが早いか、仕事が完了するのが早いか、そんな戦いの毎日でした。
ですから独立しても、全く嬉しくはなかったのが本音です。

このころに、後々大きな影響を及ぼすことに出会います。

六本木時代から知り合いだった方が、当時担当していたクライアントのカラオケルーム事業の担当として就任しました。

ある日現場に行くと、監督が今日カラオケのプロがやってくる、その人が担当となり、今後はこのプロジェクトの責任者になると言ってきました。

へ~ そんな人が来るのかと呑気にしていましたが、やってきたのは六本木時代の知り合いでした。

開口一番お互いに、「なんで、ここにいるの!」

同じ質問をそれぞれ口にしていましたが、このカラオケのプロの方ですが、その方にカラオケルームのノウハウをお伝えしたのは、実は私でした。

独立2年目でカラオケルームを量産していたころに、久々に六本木の仕事を紹介され、それがこの方がまだ店長として勤めていた会社でした。
初めてのカラオケルーム事業だったので、1からノウハウを提供して、その店は繁盛していました。
設計したのは、先に独立していた “抜けが多い図面を描く先輩” でしたが、ノウハウの提供は全て私が担当しました。

このお店は本厚木で大成功を収めましたが、その後シリーズ化し、3店舗で月商2億以上を売上る事業になっていきました。

この企業が、新横浜にサントリーさんが展開しているボランタリーチェーンに、加盟するということになりました。

ボランタリーチェーンの設計は、当時サントリー系列だった設計事務所が担当します。
ビッグネームの設計事務所です。

クライアント企業と、その有名な設計事務所とは取引が初めてなので、私が全体監理をして、その監理下にビッグネームが入る形となりました。

この時知り合ったのが、吉本社長です。

業界では非常に有名な方で、若くして白血病でお亡くなりになりましたが、多大な功績を残した方です。
その設計事務所と組んで、ボランタリーチェーンの業態とカラオケルームを合体させた業態を開発しました。

当然、大ヒットしました。

一方、このころの坂田さんは何をしていたかというと、遊んでいました。


初対面で、いずれこの人は全てを無くすと直感が降りてきた社長は、直感通り、大苦戦を強いられていました。
主戦場としていた六本木のある現場で詐欺にあってしまい、売掛金が回収できずに苦労しておりました。
裁判も行っていましたが、相手側はお金が無いの一点張りで、資金回収が出来ずにいました。

店舗の内装の仕事から、利益率の良い高級輸入家具店の経営に力を入れていました。
でも、バブルが崩壊した数年後です、バブルの時のように急にお金持ちになる人が量産されることもなく、やはりそちらの事業も芳しくはなかったです。

30代後半になって、一番脂がのっているはずの坂田さんが遊んでいると、協力業者さんから情報を貰いました。

その当時の私は、それまでの1人3交代の仕事の進め方に当然ながら疑問を感じており、体力的にもこのままでは遅かれ早かれ限界が来ると感じていた時です。
抜本的な体制の改善が必要なタイミングでした。

そこに、あの師匠である坂田さんが、遊んでいるという信じられない情報が飛び込んできました。

速攻で連絡をしました。

数日後に渋谷で会って久々に飲みました。

私は独立になってしまったいきさつと、それぞれの近況をやり取りしました。
すると、坂田さんは3か月給料が出ていない状態だと言います。

一瞬信じられませんでしたが、坂田さんが嘘を言うわけもなく、後日調べてみたら事実でした。

そこで、数日後に再会して、私と一緒に会社をやっていただきたいことをお伝えしました。


6年目の34歳の時に、坂田さんが合流してきます。
また、コンビの復活です。


この直前に大きな仕事も決まって、個人事業主から有限会社にした直後です。

坂田さんが合流してからは、一気に仕事の進捗状況が変わっていきました。

私が営業をして、仕事を受注し、坂田さんと私で分担して図面を描く、そして現場を二人で見るようにしました。
営業の勉強が必要ないくらい、実際の私は営業が得意でした。

六本木で指輪を売った経験と、高級家具を販売した経験、元々人たらしの才能もあり、営業も販売も得意でした。


そんなある日、ビッグネームの設計事務所から電話がかかってきました。

社外ブレーンとして、一緒にクライアントの仕事を担当して欲しいとのことでした。
つい数年前に知り合ったことがキッカケで、お声がけいただき、新たな事業展開が始まりました。

この時担当したのが、コロワイドさんです。

当時は、まだ年商300億規模で藤沢に本社があったころです。
ここから一気にコロワイドさんとも、このビッグネームの設計事務所とも、関係が強く深くなっていきます。


私はこれを機に、設計からは手を引きました。

手を引いたのでは無く、もうそこに携わって行けなくなったのが本当です。

私は営業と業態開発を担当して、設計は師匠である坂田さんに一任しました。

手書きで私が書いた平面図を、1時間もかからずに坂田さんはCAD図にしてくれます。
他の若いスタッフに同じことを指示すると、早くて3時間、下手すれば翌日になってしまいます。

それが坂田さんならば1時間です。

理由は簡単で、勿論坂田さんの技術力が高いことは当然ですが、そもそも私は坂田さんのコピーです。
私の頭の中にあることの根源は、坂田さんの頭の中にあることです。
ですから、線1本の意味まで坂田さんは理解してCAD図にしてくれます。

出来上がった、CAD図を見て、「あっ 坂田さんはこっちに判断したか ここはこうなんだよな」と、勘違いした内容と理由まで理解できました。

当時は、チェーン展開しているクライアントが数十社いました。

コロワイドさんも、レインズさんも、イタリアントマトさんも、プロントさんも、イートアンドさんも、はなまるうどんさんも、とらふぐ亭さんも、ヴィアホールディングスさんも、もう沢山有名な企業がクライアントでした。

コロワイドさんが、近畿エリアに積極出店していた時の80%は、弊社で設計を担当させていただきました。
近畿エリアに積極出店に関しては、イタリアントマトさんに至っては、100%弊社で担当しました。

図面を描く時間が間に合わずに、新幹線のグリーン車の小さなテーブルの上で平面レイアウトを書いたことも何度もあります。

3時間半で3店舗描いていました。

それも甘太郎ですから、150坪クラスの大きさで、300席以上は必ずある巨大店舗です。
それを小さなグリーン車のテーブルで一気に3店舗描いていました。
そうしないと間に合わないスケジュールしか、コロワイドさんからはやってきません。

そうやって、手書きで描いたレイアウトをもとに、コロワイドさんの開発担当者と現場の営業担当者と打ち合わせをして、とんぼ返りで東京に戻ってきます。

深夜に事務所によって、坂田さんのデスクに議事録代わりにもなっている手書きのレイアウトを置いて、明日の打ち合わせの図面を持って事務所を出ます。

次の日、また新幹線で移動中に、初めて坂田さんが描いた図面を観ます。

「お~ カッコ良いね」と、感嘆します 
内容も確認して、ほんの少しの勘違いも見つけます。

そうやって、始めて観た図面をあたかも自分が描いたように、設計説明会でお披露目したことは数知れません。

あたかも自分が描いたように伝えられるのは、私は坂田さんのコピーであり、坂田さんは私のコピーだったからです。

そんな毎日を、40過ぎまで過ごしていきました。

コロワイドさんが一番出店した時に、弊社がその70%以上を設計担当させていただきました。

その年の年商はガクッと下がりました。

コロワイドさんが忙しすぎて、コロワイドさんの設計しか仕事として受注できない年でした。
その結果、年商は一気に40%程度まで下がりましたが、利益率は非常に良く、銀行は年商のダウンに驚きながらも、その理由を知って安堵し、利益率の高さに喜んでいました。

次の年、又、年商を倍以上に戻しました。

年商の推移の一部をご紹介すると、3,000万、7,000万、1億5,000万から1度急落して5,000万、そこから再び1億2,000万、2億7,000万、4億7,000万と、何度も何度も、年商を倍増もしくは同じくらいの規模で増やして来ました。

勿論、維持させて成長を緩やかにした時も、何度もありました。


そんな毎日でしたが、2006年に坂田さんに、大腸癌が発見されます。


ここから、一気に会社も私もおかしくなって行きます。

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