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真理を語る暗殺者トム・クルーズ

映画や小説などの物語が「主役とその敵対者」というモデルを採用しやすい理由は、脳にありがちな発想のクセのようなものだ。主人公の周りがみんな友達だなんてディズニーの子供向け番組でもありえないだろう。
さて、主役とその敵対者をひっくり返せば「ハンニバル」や「パブリック・エネミーズ」のような俗にアンチヒーロー(antihero)と呼ばれる枠組になる。歴史の中で最も有名なアンチヒーローといえばドン・キホーテだ。
では、いわゆる主役とアンチヒーローを足してしまえば、物語が重厚になって、より深く人物を撮ることができる、とマイケル・マン監督は気付いたのだろう。
マン監督作は先述の「パブリック・エネミーズ」や「ザ・クラッカー」のようなアンチヒーローと呼べる作品を撮りつつ、その出世作「ヒート」をはじめ「ラスト・オブ・モヒカン」「インサイダー」「コラテラル」などは、主役とその敵対者をシンプルに対立させるのではなく、お互いの生き方のせめぎあいとして編集している。これらの映画では「敵をやっつける」のではなく、「こいつは本当に敵なのか」「やっつけるべき相手はこいつなのか」という問いが常に示されている。「マッドマックス」を観て手に汗を握るような人たちには向いていないだろう。
「ヒート」が代表作であることは言を俟たないが、僕は「コラテラル」を特に推薦したい。トム・クルーズが悪役ヴィンセントを見事に演じ、タクシー運転手マックス役のジェイミー・フォックスとの駆け引きが2時間をあっという間に変える。
いま僕は悪役ヴィンセントと書いたが、ヴィンセントは運転手マックスと常に行動をともにする。つまり、ホームズとワトソンの過激なバージョンとも言える。マン監督は「ヒート」でもそうであったように、どちらかの言い分(あるいは正義)に加担せず、善悪という退屈な枠組から脱出した映画を撮っている。
ヴィンセントにしてみれば、マックスは殺しのために雇った運転手であり、マックスの立場になればヴィンセントは迷惑な客である。映画が進むにつれて互いを巻き込んでいる関係(collateral)になっていく様子は、桃太郎の鬼退治のようなバカバカしいほど単純な映画とは一線を画している。ひとりひとりの人間にはそれぞれの事情があるんだよ、というマン監督のメッセージだろう。
ところが、現代という社会はあまりにも瑣末なことが多過ぎて、人は他人に関心を払わなくなっている。それをマン監督は、心優しいマックスではなくヴィンセントに語らせた。
"A guy gets on the MTA here in L.A. and dies. Think anybody'll notice?"
(ある男がこのロスで地下鉄に乗って、死ぬとする。誰が気付くんだ?)

ちなみに、劇中の韓国クラブでのシーンが、BGMのおかげでとても印象に残ったのだが、有名DJである Paul Oakenfold の Ready, Steady, Go という曲だった。名作はだいたい音楽も優れていることが多い。
さらに蛇足になるが、本作のラストシーンに登場する駅は、映画「ヒート」のオープニングでニール・マッコーリー(ロバート・デ・ニーロ)が降りて行くレドンドビーチ駅だそうだ。きっとマン監督はロサンゼルスの中でもここの景色が好きなのだろう。

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