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東日本大震災で感じた「私ができることをしよう」という思い

2011.3.11の地震の時、私は東京半蔵門にあるオフィスビルにいた。

何回か続く長い揺れが収まったあと、横にいた同僚はネット動画で津波の情報を見ていた。
これはヤバいことになった。誰もが感じていた。

就業時間が終わり外に出てみると、車は大渋滞で動かず、新宿駅に向かう人の波で行列ができていた。とても早足で歩けるペースではない。
九段下あたりは有名な学校も多く、帽子を被った小学生がグループになって帰っている。普段満員電車にもまれて通学している小さな子たち。その日も品行方正に歩いていた。誰もパニックじゃなかった。

私は当時巣鴨に住んでいたので、その方面に歩いて帰った。Googleマップがあって助かった。途中の公衆電話で母親に連絡して無事を確認し、マンションについた。初めての道でも二時間程でついたと思う。マンションは耐震だったのでテレビ一つ落ちていなかった。テレビは原発の話になっていた。

翌日は土曜日で、会社は休みだった。
だいたい土曜日の午前中は、一週間分の掃除、洗濯と買い出しがルーティン。いつものくせで外に出てみると、外は帰宅困難者に溢れていた。

池袋に向かう人の波と、パンパンに膨らんで重そうに走る都営バス。しばらく交通網も流通も麻痺することは明らかだった。

原発がメルトダウンを起こしたであろことがニュースでも流れてきた。外に出ることは危ないのか?この空気が危ないのか?そんなことがこの東京でも頭をよぎる。ニュースでは被災状況と原発と帰宅困難者の話でもちきりだった。

月曜日になり、私は普通に出社した。
電車は動かないことが想定できていたので、会社まで歩いた。スニーカーで早朝歩けば巣鴨から半蔵門までは90分くらいでついた。

当時、私は個人としてはたいして責任ある仕事をしていたわけじゃなかった。有給で休んでも良かった。会社に行ってもできることは問い合わせの電話対応くらいだ。

だけど、考えた。
もし死が近づいているとしたら、私は残りの時間、何をして過ごしたいだろう?
東北の被災状況や原発のことを考えると、死を身近に感じることは容易いことだった。

そう思ったとき、いつも通り仕事しよう。私に与えられたことをしよう。
そう思った。

全然好きな会社じゃなかったから、会社のためとかそういうのはなかった。だけど、こんなときこそ会社にいって、部署関係なくできることをやろうと思った。サービスは稼働しているし(当時IT関連だった)できる仕事はたくさんある。

この会社のサービスを使っているクライアント様が全国いて、その先にお客様がいて、それぞれに家族がいる。私はそういう波及的な考え方で、今の自分のやるべきことを思い返すことが多い。

いつだって、働くことは大好きなんだ。私でも役に立てることがある。それをやりたい。

それからも、休まず通勤した。徒歩ですることが多かった。段々慣れてきて、一度千鳥淵に寄って、早朝すいている満開の桜を眺めたりした。それはそれは見事な桜だった。1日3時間も早歩きしていると、なかなかのダイエットになった。私のヒップは上がり、はいていたパンツはゆるくなった。(徒歩通勤を辞めたらすぐ戻った)

今でも思う。
あのとき、淡々と歩いて会社に行き、働くことを選択したこと。
その会社は結局合わずにやめたけど、だけど、私にとっては働くことは生きることで、生きることは働くことなんだなと。

今改めて、私の仕事と、そこにいるクライアント、その先にいるお客様、家族、社会。社会が機能するこの環境にに感謝して、ちゃんと、好きなことをしよう。自分の心は自分で満たして、自立した人間として社会を構成する一員でいよう。

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