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トウモロコシの別れ③

彼女と会えないまま、引越しは一週間後に迫った。

なにも知らない彼女は、いつものようにわたしの部屋にやってきた。

わたしは、アパートの裏にある物干し場に彼女を誘った。

晩夏の日に温められた板塀に背中をつけて二人並ぶ。

彼女は茹でたトウモロコシを持っていた。

「たべる」

「うん」

トウモロコシやサツマイモ。

おかあさんが持たせるおやつを、いつもわたしに分けてくれていた。

指先で器用にトウモロコシの粒をぽろぽろ外す。

「て、だして」

手のひらに、五つ六つ落ちてくる。

一粒ずつ大事に食べるのだ。

「おいしいね」

「うん」

わたしは、口が重くなっていた。

次にトウモロコシが落ちてきたとき、やっといった。

「うちね、ひっこすの」

「えっ」

彼女は手を止めてわたしの横顔をじっと見た。

「いつ」

「らいしゅう」

「らいしゅうって」

「わかんない」

「ほんとなの」

「うん」

「やだなあ」

「うん」

「ひっこさないでよ」

「うん」

彼女はトウモロコシの粒を一心に外しはじめた。

それをぜんぶわたしの手のひらに盛り上げていく。

「これあげるからさ、ひっこさないで」

粒の上に粒が重なり、もう落ちてきても冷たくない。

その手のひらをもう片方の手のひらで支え、わたしは足の先を少しずつ前にずらしていった。

赤い運動靴の甲には鉄腕アトムとウランちゃんの絵がついている。

乾いた土が靴の周りに小さなひだを作った。

「ね、ひっこさないで、ね」

ふだんはさばさばと話す彼女が、女の子らしく小首をかしげている。

わたしは、どんどんつらくなっていった。

トウモロコシはおいしいけれど、もう食べられない。

その日どのように別れたのか、はっきりとは覚えていない。

たぶん、彼女がおかあさんに呼ばれたのだろう。

「またね」「またね」と何回もいいあったかも知れない。

引っ越す日は、彼女とおかあさんがくる曜日ではなかった。

次に彼女がきたとき、わたしの部屋にきて、いないことを知るのだ。

そのことを考えるとおなかの上のほうが痛くなった。

父は引越しの小さなトラックに運転手さんといっしょに乗っていき、わたしは母と電車でいく。

足を重くして、できるだけゆっくりいこうとしたが、それでもきょうは彼女に会うことはできない。

二人で並んだ板塀と同じ色の外壁を何度も振り返りながら、アパートを離れていった。