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放課後の旅 高校演劇の脚本について第4回  キャラクターとなろう系   

季刊高校演劇 No.273に掲載した文章と同じものです。
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陽キャと陰キャ、コミュ力について
陽キャは「特定同類同士の同質性を求める」そうです。ヤンキー、ギャル、学園祭実行委員、クラスマッチの応援団、教員のコミュ力の正体ですね。陰キャは楽観論や公正世界信念に惑わされずに現実を直視できる。自分の内面と向き合う機会も多い。

なろう系とキャラクター
なろう系をご存じか。説明すると長くなるので検索してください。ウィキペディアが簡潔にして要を得ています。なろう系でよくある転生ものではキャラクターの共有が見られます。
東浩紀がキャラクターのデータベース化を提唱してからだいぶ時が過ぎました。キャラクターをあらたに創造するのではなく、ありもののキャラクターをデータベース化して共有し、自分の創作物に登場させようという創作の在り方を評したものです。
高校演劇で、ネット台本で、まるで世界にはじめから存在しているかのようなキャラクターの数々にも納得がいきます。「高飛車な学級委員」「学校側と結託して権力をふるう生徒会長」など、現実にはいるわけない人物はキャラクターのデータベース上に存在し、創作物の中でのみ生きています。現実にいるかいないかを問われない。顧問や審査員とはキャラクターの考え方そのものが違うのです。

準拠枠
準拠枠とは対象を認識する際に使われる判断の枠組みのことだそうです。虚構を創造する場合に、現実を準拠枠とするか、虚構を準拠枠とするか。データベースから引き出したキャラクターの組み合わせで、なになにものと言われるジャンルの王道のストーリー展開。まるではりトラで分類しやすいように作っているかのようです。もちろん歌舞伎はそのようなつくりになっていますので、虚構を準拠枠にしてわるいわけではありません。この作り方(二次創作のような、2.5次元のような)で度肝を抜くようなすごいのが現れないか待っているところです。
しかし、わたしたちはほんとうに現実を見て創作しているか。顧問が書いて演出した学園物は山とありますが、現実が準拠枠になっているか。実際の生徒はそんなこと言うのか。高校演劇のデータベースは大昔からあったような気がします。自覚していない分だけたちが悪いとも言えます。

ここにほんとうの教室がある
これはある顧問作家の脚本について述べた評です。これを聞いたときちょっと驚きました。つくりものであることを前提としての創作物であると思っていたので。本当らしく見えるという目論見は当たっているということでしょうか。ステレオタイプといえばわかりやすいかもしれませんが、キャラクターのデータベース化というのはそれともちょっと違う気がします。

ファニーな演技
ここで演技について少しだけ触れます。ファニーな演技、いわゆるコミカル、カリカチュア、デフォルメ、なんといってよいかわかりませんが、後半のシリアスを念頭においた楽しい演技です。もちろんこんなふうに生きている人間はいないか、あるいは自己犠牲の精神でみんなを楽しませるために過剰なふるまいをわざとしているか、どちらかです。
日常的にボケとツッコミが繰り返されるという、日本のある地方の社交辞令というか生きるための厄介なローカルルールの中でもこのアクションは見られますが、これは当人同士と周囲は現実の中に紛れ込んだちょっとした虚構であることを自覚しているので別の話かと思います。よその地方のものに強要されると困りますが。生きづらそうでたいへんですね、という感想です。
この過剰さはいわゆるまじめなことをするときもおおいに活用されます。小さい芝居も大劇場でやらないとならない高校演劇の宿命かもしれませんが、それにしてもなぜああまでオーバーアクションになり、それが踏襲されるのか。これも虚構、この場合は高校演劇が準拠枠となっているからでしょうか。
ただし、高校演劇の優れた達成と現在考えられている舞台はそのようなことを感じさせません。準拠枠が現実でも虚構でも。気づいたらそれが演技であることも忘れ舞台に没頭しています。

キャラクターはいない
では、じぶんはどうかという話です。じつは登場人物のうち、だれが言ってもかまわないようなセリフが大半です。言い方を変えると人物造形に気持ちがいかない。キャラクターというよりパーソナリティだと考えています。ここで出てきたナカムラは次に出てきたときには同じナカムラとはかぎらない。三一致でいちばん一致していないのは人物であることが多い。だから季刊高校演劇に載せるときの人物一覧(男何人、女何人)がほんとうに困ります。もちろん、『全校ワックス』など三一致を守っているものは別ですが、それでもキャラクターと言われるとちょっと困る。パーソナリティは矛盾し、一貫していないというのが前提であるからです。むしろときどき人(にん)に合わないことを言わせるようにもしています。
乱暴にまとめると、ここにあるキャラクターがある、という縛りが演技の縛りや物語の縛りを生むのではないでしょうか。

最後に
2024年の1月に山梨県で関東大会が開催されます。県立の劇場は割引もなく、関東大会のたびに正規の料金を払い続けているのですが、資金調達のためにクラウドファンディングをやろうとしたら山梨高文連からストップがかかりました。前例がないからだそうですが、このクラウドファンディングのリターンは、中村勉脚本10年間上演料なし、とか『全校ワックス』使い放題とかなのですが、できないのなら仕方ありませんので、今後もいただくことにします。
さて、貴重な紙面をお借りして、一年間連載をさせていただきました。正直反応はあまりなく、それでも鹿児島総文の季刊高校演劇のブースに中村を訪ねてくださった方がいらしたそうですが、コロナで臥せっておりました。失礼しました。
せっかくの「劇作研究会」ですので、次の一年はぜひだれか代わっていただきたいと思います。ずうずうしく諸先輩方を差し置いてお目汚しをいたしましたので、次はどなたがやってもやりやすいのではないかと思います。
これからどうするかというと、顧問という立場になることはないかと思いますので脚本を書くかはわかりません。当て書き以外に書いたことがないので、上演の当てもなくひとりコツコツを書き進めるなんていうことはできないでしょう。
脚本ワークショップの企画を考え中であること、高校演劇の講評についての考えをまとめてみたい、講評研究会をやってみたいことなど、実現できるかわかりませんが、どなたかいっしょにやっていただけたらと思います。
一年間のお付き合いありがとうございました。note.(note.com/suchanga)では文章を書いていきます。ご高覧ください。


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