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あんまり世界のルールがわかんないや


犬の散歩中に、落ちている木の実を蹴ると犬はヒャッホウ!と叫んだかのように走って木の実を追いかけた。

木の実に追いつくとガリガリ噛みはじめる。
私が近づくと、「はやく!投げて!」とせがむように尻尾をブンブン振って大きな目をキラキラさせてこっちを見上げる。

投げては走り、噛み噛み、投げては走り、噛み噛み。
犬にとっていい運動だ。

でも疲れてきて「もう走りたくない!」となったら、木の実をくわえたまま歩き続ける。

「え〜散歩おわるまでくわえるの?顎痛くなるよ?もう離したら?」と口から木の実を取ろうとすると強く噛みしめて離さない。笑っちゃうくらい抵抗してくる。
「まじで離さないの?じゃあ投げる?」と言ってももう無駄だ。ずっとくわえたまま歩き続けた。本当に可愛いやつだ。

「そろそろ帰るからね、もう離して」と口から無理やり木の実を奪いとった。
そうするとまた目をキラキラさせて「投げるんでしょ?ねえ投げるの?!」と言った様子で尻尾フリフリおめめキラキラ。

「え、本当はまだ走れたの?でももう帰るからね」と木の実を適当に投げ捨てたが、走って取りに行ってまたくわえた。2、3回くり返したすえ、「埒が明かないねぇ」と諦めさせるために木の実をフェンスの向こうへ思いっきり投げた。

犬は全速力で木の実を追いかけたが、木の実はフェンスを超えて着地した。
フェンスの側で「わぅぅん」と尻尾をピンとたてて振りながら向こうを見つめる犬の後ろ姿が健気すぎて「ごめんよ」と呟いた。

「あっちはアメリカだからね、入れないよ」と言いながら自分側の芝生にいる鳩とアメリカ側の芝生にいる鳩が目に入る。

「鳥はいいねぇ、国境がなくて、自由で許されるんだ。ウンチしても拾わなくていいんだよ」

フェンスには看板が取り付けてある。
『無断で立ち入ることはできません。違反者は日本国の法律にそって罰せられる。』

生まれてからずっとこのフェンスの光景は当たり前にある。
犬を飼わなければ、フェンスの近くを散歩することも木の実をフェンスの向こうに投げることもなく、ただあっちは入れない、あっちの人はこっちに来れるけど、というだけのことだった。

普通の光景。どこに行ってもアメリカ人がいる。何とも思わない。一部の観光客にとっては新鮮なことらしい。
フェンスの向こう側の英会話教室に通ったことがある。何かしらの許可証がないと日本人は向こう側に入れない。出入りするところの管理をする軍人さんは鋭い眼差しで決して笑わなかったのを鮮明に覚えている。アメリカ人は簡単そうにフェンスのあっち側とこっち側を出入りするけれど、日本人には厳しいといった印象だ。

「投げちゃった木の実・・・もしかして罰せられちゃうのかしらん」と一瞬よぎって鼻で笑った。

「同じ地続きなのにねぇ、国は違うらしいよ、いいなぁ、アメリカ人は自由に行き来できて」

今日もゴゴゴゴ〜といかついプラモデルみたいなものがバンバン空を飛んでいる。
学生の頃もこの轟音のせいで授業中先生が諦めて、音が通り過ぎるのを待つ時間は当たり前にあった。

「不思議だね〜わざわざ遠い異国に基地を作って家族と離れ離れにならなくてもいいのに、アメリカには広大な土地が有り余っていそうだけどね〜」

アメリカに海を埋め立てて移動してくださいと言い、地元民が埋め立て反対と言い、自国が海を埋め立てて地元民でまた反対する。

アメリカ軍基地の飛行機の騒音もすごいが、自衛隊の戦闘機のスクランブルも物凄い轟音で思わず耳を塞ぐほどだ。

海を埋め立てて出来た土地が活性化して人々が住みショッピングモールができて、また人で溢れる。その人たちはもうここが海であったことすら意識していないのかもしれない。知らない人が年々増えていく。

なにが言いたいわけでもない。この家もこのコンクリートの街並みも不自然といえば不自然で、非自然といえばそれまでだ。

なにが言いたいわけでもない。言えるほど社会情勢を自然破壊を、知りたいと思っていない、大人になれないから。知ったら途方にくれて引きこもってしまいそうで怖いから。言えるほど立派に取捨選択をしていないから。言えるほど自然を守っていないから。毎日排気ガスを出し洗剤を使いゴミを出し、自然のタネになるようなコトしていないから。言えない。毎日自然を破壊していそうだから。
どうしたらいいの?って心が言うけど、口に出して言えない。答えがないことが怖いから。考えることを放棄している。

人間でいること。地球にいること。生きること。感情があること。バランスがあること。奇跡に近いバランスの大気に包まれていること。ここにいること。自分が選んだの?選ばれたの?延々と実をつける木。落ちてもまた実って落ちても実っての繰り返し。その実ひとつひとつを人間と重ねてみた。

落ちた実は土の、木の、栄養になるのだろうか。

死んだら私は地球の栄養になるのだろうか。

それならばいいね、いいと思える。

それなら死ぬ日まで楽しく生きてもいいのかな?

生まれた日からなぜか私はとある国に属していて、パスポート無しではここから出られない。この世界にいるのなら従うべきルールがあって、そのルールの中に矛盾を見つけたヒトがそれを告げると「し〜」と人差し指がおちょぼ口に添えられる。

見える世界はとても綺麗でコンクリートだろうが石だろうが何だろうが人工物も綺麗で、木も空も雲も海も生き物も花も太陽も月も星も、視界に広がるすべては綺麗だ。思考さえ取り除いて気持ちだけになると、綺麗なの。

言葉を発さなければ、綺麗だ、起きた、腹減った、眠い、おしっこしたい、で終われるのかな。

目の前にあるものを受け取って思う存分に使って楽しませてもらっている。
このPCも私の体の構成物質と同じ成分が入っている?溶け合えば混ざれる?
私は死ねばきっと土と一体化していく。

考えることができるからこんなに便利なもので世の中溢れている。
考えることも自然発生でしょう。全ては自然と出来上がってきた。
植えた種も寝ている間に自然と成長していく。
否定することは殺し合い、争うこと。それ以外否定すること、この世にないよね? 

あるがままだ。自分があるがまま。

意思に関係なく、自然とそうなっていくの。

だから身を任せていいのかな、この大気に。この世の流れに。感情も流れて。

今をただ息するだけだ。

共生。植物がうむ酸素。享受している。ギブアンドテイク。テイクばかりだ。

もう少し自然と時が経ち成長すれば、また見えてくるものがあるかな。

自然に身を任せるか、脳を動かし先取りするかってこと?

考える時間が必要だ。大事にしたいものがあるから。

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