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想像で色を抜く、想像で色を加える

RICOH GR IIIx , 絞り優先AE f4.0 , 1/40sec , -0.3EV , ISO200(オート)

普段はカラーで撮って後からモノクロにすることが多いのだけれど、この日は久しぶりに設定をモノクロに決め打ち。

とてもカラフルな店内装飾で、綺麗な花も飾られていたのだけれど、モノクロの階調で表現するのもいいんじゃないかということでの1枚。フィルムカメラの頃に、ガムテで目張りをして暗室もどきにしていた自室で印画紙に浮かび上がる像を思い出しました。

その頃、まだ乾燥していない印画紙のヌメッとした階調が好きで、このままバットの中に置いておきたいなどと思ったこともありました。

たまたまInstagramで流れてきた「モノクロ写真は撮るときに想像で色を抜き、見るときに想像で色を加える」というフォトグラファーさんの言葉を聞いて考えたこと。

何かを一面的に捉えるのではなく、想像力を働かせて、その人のバックグラウンドにあるものを考えながら話を聞くことの大切さというのを感じることがあります。もしかしたら、自分自身のことで「分かってくれよー」と大声を出したくなっているのかもしれませんが。

ここのところ色々と振り返ることがあるのですが、自分が一番楽しかったのは小学生の頃かもしれないなと。

それは就学前でも中学以降でもなく、小学生時代。

自分が所属している階層を嫌というほど思い知らされることも多かったけれど、他人の境遇と自分の境遇を比べて妬んだり、僻んだりことも少なくて雑多な構成をそのまま許容できていた気がするのです。

就学前は自分でコミュニティを選べるほど世界は広がっていないし、中学以降は成長するにつれて同質なコミュニティがどんどん純化していく。少しずつ身についてくる知識でその純化を防ごうとしていた気はするけれど、意識してその純化を防がなければいけなかったなと本当に認識したのは、同質なコミュニティである会社員であることを辞めたときだったかもしれません。

人は白と黒の2色や、白と黒とグレーの3色の世界に生きてている訳じゃない。無限のグラデーションの中にいるはずなんだと思うのです。

こんな画像を作ってみたりしたのですが、伝わらないかな。

私は下のような社会に生きていると思っています

分類するとか除外するとかもう嫌なんです。

テレビの報道番組の定点観測を趣味とする写真好き。酢豚にもピザにもパイナップルを許容します。

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