何者かになることとは?

「何者かになりたい」と思うことはあるだろうか。私は、何者かになるという人生の大きな目標を抱いたことはない。自分が思っているよりも世界はずっと広くて、沢山の可能性で満ち溢れていて。その中から自己を確立させることがどれだけ難しいのか、私にはまだ分からない。
私はVtuber、にじさんじというコンテンツをよく見ている。その中でも、にじさんじの元二期生である家長むぎさんの配信を見ているのだが、最近の雑談でこんなことを話していた。
『何者かにならなくていい、私の生活習慣がそう思わせてくれている』と。私はこの言葉を聞いてとても驚いた。人生に目標がなくて焦っている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。何者かにならなくていい。その言葉は、今まで苦しんでいた私にとって最高の言葉だった。他にも家長むぎさんは人生を豊かにしてくれる価値観や言葉をいつも話してくれている。この記事を見て興味を持った方にはぜひ見てみて欲しい。
閑話休題。ここで一つ、私の話をしよう。今回この記事を書いているのは、家長むぎさんの素晴らしさを伝えるわけではない。(とても素敵な方ではあるが。)「何者かになること」とは一体どういうことなのか、その「何者かになること」で、一体どんな結末を迎えるのかを、私なりに考えようと思う。
これは例えばの話。ずっと教師になりたい子供が一人いた。その目標のために彼は毎日勉学に励み、努力の甲斐あって彼は長年の夢であった教師という「何者かになる」ことをした。長年願っていたことである。さぞかし喜んだことだろう。だがしかし、彼は数年で教師という仕事に関心を持たなくなってしまう。完全に熱が冷めてしまったのだ。まるで恋のように。
おかしな話であろう。自分がずっと目指していた者になることができたのに、自分でその道を断ってしまった。彼は自分が追い求めていた何者か(この場合は教師)になるという夢を叶えてしまった。よく夢が叶うことより、夢を叶えるための過程が大切だという。私はまさにその通りだと感じている。だからこそ、熱中していたものの、ゴールしてしまった途端に冷めてしまうのではないだろうか。
私は別に何者かになろうとすることを否定しているわけではない。でも、自分が設定した夢に縛られたまま人生を送るのはどうなのか、という話である。そんなぼんやりな思想を抱いている自分。そんな人だけれど、ぼんやり生きている中で小さな幸せを見つけられる人生が、私にとって一番あっているのかもしれない。毎日何者かになるために走って、走って、走り続けて。その夢が叶った時、人はどうすればいいのだろうか。立ち止まって辺りを見渡すことで、新しい出会いがあるかもしれないし、それが夢の邪魔になることもあるのかもしれない。目標を大きく掲げる人生よりも、小さなことで喜び、小さなことを楽しみ、ぼんやりと過ごしていく。まだまだ知らないことばかりだけど、何者かにならなくたっていいな、と感じることができた。

気になった方は飛んでみて下さい。切り抜きですが、とても素敵な方です。
https://youtu.be/lmz40k-r6eQ?si=Vwr1fkfjGB8r9sm4

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