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形式と創造

炒飯 = 炒めた飯 
という大雑把な概念とする。
つまりご飯を炒めるという「形式」があれば、美味かろうが、不味かろうか炒飯になりえる。
しかし様々なパターンがある。
レタスが加わったり、ハムだったり、高菜が入ったり、ほとんどピラフだったりするかもしれない。
風習や環境が違えば、理解できないパターンも、もちろんありえる。
この具は認めない、バターはピラフでしょ? など、別モノ!という気持ちもわからなくない。
炒めたご飯という「形式」だけなら、様々なバリエーションが可能で、味付けもパラパラ度も全然違ってくる。
中華料理店で、炒飯を頼みがちな私はそう思う。

ある形式をただ組み合わせた、形骸化したに等しいものがあったとする。
それに価値の有無をつけるだけの行いや、カテゴライズするだけの行いに意味はない。何でもかんでも成果で価値づけるのは簡単だが、基準として不自由すぎる。
雑なカテゴライズは簡単で、ハッタリや腐らせることも容易に行える。

それだと、ミソもクソも同じになりえる。
よく見れば見るほど、どっちがどっちなんだか複雑でよくわからなくなることもある。
だから、ある視点を持って評価したり、批評することに意味がある。
それらはどこまでいっても絶対的な評価にはなりえず、ただ空気に支配されていることも多々あるが、リバイバルやもっと後の評価の手がかりへと繋がったりすることがある。

例えば「形式」をいくつか取り入れただけの作品。
それをただ情報的に書き出し、賞賛しただけの批評という「形式」の文章。
またストーリーを説明しているだけだったり、事実をただ羅列しているだけの文章などには、どんな価値があるだろうか。
データや感想など、なんらかの「形式」としての価値があるかもしれない。
しかし、独自の分析や視点を用いて、なにかしらの文脈や視座を持った作品や批評とそれらはどう違うのか、ということに敏感でなければいけない。
判断や区別を行うことと同時に、違う視座を知ること(考えが合わないとしても)も大切なことだ。

「形式」から抜け出したように見えるモノも「形式」になる。
形骸化した「形式」も、また「形式」なのだ。
ブルースらしい「形式」が聴きたいのか、アンビエントっぽい「形式」が演奏したいのか。「形式」らしいモノを求められ(ているような気がして)、「それ」らしいモノになってしまったのか。
炒飯らしい「炒飯」が食べたいのか、炒飯っぽい「ピラフ」は炒飯ではないのか。
「in」ではないから「out」なのか、「out」らしいから「out」なのか。

意識的に輪から離れたと思っていても、違う輪に居るだけだったりする。
おそらく人はどこまでいっても「形式」から抜け出せない。
どうしたって、どこかで行き詰まる。
行き詰まるならば、その道中(過程)を楽しむくらいが、ちょうどよいのかもしれない。

おいしい炒飯が食べたい。
それを見つけるのが難しい。
自分で作ってみると案外楽しい。
表現は、そんなはじまりで良いように思う。
出来上がったものが、引用まみれであってもだ。

そこで表現と創造を分けて考えてみたい。
創造は近いようで、もっと別のところからやって来るように思える。
「形式」の組み合わせの中に創造を思う人もいるかもしれない。
しかし、ある種のテンプレートやパターンが認められた時代はあったが、その方向性では生成AIに間違いなく敵わない。
テックで埋め合わせられた中で、ある一定の「形式」の組み合わせにワクワクすることは、さらに難しくなるように思う。

ある「形式」を大きく間違えて認識したり、
「何だこりゃ」というワクワクするものを求めること。
世界の外側(的なもの)を感じたい。
そういったものが、より一層創造の源となるように思う。
無知の原始的な場所はもちろん、明晰を超えたところにも生じる可能性があるはずだ。
それらに価値観を揺るがす、力の湧く「何か」が宿るように思う。

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