昭和の暮らし:(6)玄関と黒電話と牛乳配達

玄関と便所が東の角にあった。
名古屋市でも60年代に新たに宅地となった辺りだが、両親はその土地が浸水被害に遭う可能性を危惧して、道路の水準よりも土地を上げて家を建てた。後に、この判断によって浸水被害を回避できて非常に良かった。

そういうわけで、玄関までゆるめの階段と傾斜を上がって玄関に入る。
両開きの木製の玄関扉だった。
門扉は当時はなかった。門がある家がうらやましかった。

玄関の左右には植栽空間があった。
向かって右には、父が松を植えて、それを玄関の方へ曲げて育てていた。見越しの松に仕立てたかったのだと思う。その他、小さな植栽があったような記憶がある。
向かって左はお勝手の前の謎の空間だった。砂利が敷いてあって、人が一人通れる程度だった。路面から高いところの空間なので車庫には使えない。
垣根にしていた槇の木に紫色の実がなって、晩夏から秋にかけて取って食べていた。

玄関の開き戸の横には郵便受けが取り付けてあり、その下には牛乳のボックスが置いてあった時期もある。雪印か明治かの青い木の箱で、蓋がぱかっと開けられる。200CCの牛乳瓶が2本入る。
朝起きると牛乳が配達されていて、朝ごはんのときに飲む。
まだ、1リットルの牛乳パックは見たことのない時代だった。
調理台の下の引き出しに、牛乳瓶の蓋を外すための針金のようなものがついた器具が入っていた。
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玄関の話に戻る。

昭和の玄関は広かった。
たたきと上がり框があって、廊下に少し幅広の良い木材が使ってある。たたきには黒い玉石が3つづつ埋められた模様があって、セメントの土間になっていた。上がり框の木材も大きくて太くて、いい木が使ってあった。

下駄箱は、西側の壁に埋め込まれるように作ってあった。台所側の戸棚が上面に、玄関側の下駄箱が下側になっていたのだ。
昔は玄関までお客さんが来て、玄関先で話し込む母の姿があった。
化粧品も玄関先で買っていた。百科事典の訪問販売の人も来た。

下駄箱の反対側に、胃の高さぐらいのところに父が棚をつけた。電話を置くためだ。
電話以外に、花瓶や、いろんなものが置かれた。

黒電話の導入は小学校に上がる年ぐらいの時期だったかもしれない。
当時は電話の貸し借りをすることも多かったけれど、私が電話を借りたという記憶はない。
小学生が、クラスの電話連絡網というのをもらっていた頃だ。連絡網には電話番号と住所が書いてある。個人情報という概念がない頃だった。電話帳に全情報が載せられて配布されていた時代だ。
その連絡網に、自宅電話ではなく、(呼び出し)と注意書きされている家が何軒かあった。友人宅もそうだったので、遊びに行くとお隣の人が「電話ですよ」と来てくれる。
電電公社の公衆電話のボックスが500メートルおきぐらいにあったので、電話をかけるのは問題なかった。かかってくる電話を取次ぎするだけだった。かけるときは3分10円、かかってくる電話は無料だった。

お隣に取り次がない家でも、電話はたいていどこの家でも玄関先に置いてあった。客人でもすぐに使えるようにしていたのだと思う。訪問販売の人が商品の情報を「会社に聞いてみる」と言って、電話を貸してくれということもあった。

黒電話は電電公社から借りていた。黒電話用の小さな座布団が引いてあった。どこの家も全く同じ電話機を使っていた。レース編みのカバーをかけてある家もあった。

次回は、玄関のつきあたりにあった便所の話。