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「この世界にいてもいいんだ」と思える場所を

「学校がつまらない。勉強が嫌いだから進学する気もない。かといって社会にも興味がないって言うんです」

ある集まりで、高校1年生の女の子を育てるお母さんはそう言った。

「とにかく、何事にも無気力で……。このままだと将来どうなるんだろうと本当に心配になって」

「そういう時期だよね」

「なにか打ち込めるものを見つけられたらいいかも」

その場にいた人たちは、自身の子育て経験を踏まえながら思い思いにアドバイスを口にした。

ただ僕は、胸が痛んだ。その子と同じころに、似たような気持ちを抱えていたからだ。特に「無気力」というひと言が胸に刺さった。

***

当時、どうしてあれほどまでに気力がなかったのだろう。絶望感でいっぱいだったけれど、いったい何に絶望していたのか……。いまでもよく分からない。

親からは「甘え」と言われた。確かに、そうかもしれない。「いったい何がそんなに不満なのか?」とも。そう言いたくなるのもよく分かる。

そして、何度も繰り返し問われた。「どうしてそんなに無気力なのか?」と。

どうして……? 何度問われても、答えられなかった。自分でも分からなかった。ただ、そこには言葉にできないぐちゃぐちゃな想いが渦巻いていた。それだけは確かだった。けれど、その想いは表現できるものではなかった。

きっとその想いは、十代の多くの男女が感じるものなのだろう。だからいつの時代にも十代の子たちは似たような内容の歌を支持する。自分の想いの代弁をしているような歌手に夢中になる。でも、そこに共感はあっても、答えはない。救いもなければ、出口もない。あるのは、一時的な陶酔と高揚だけだ。

そうと分かっていても、僕自身、聴き続けるしかなかった。自分の部屋以外に居場所はなく、音楽を聴く以外に気持ちのやり場がなかった。

居場所も、やり場もない。言い換えるなら、安心して自分の想いを開放できる場がなかったということだ。ぐちゃぐちゃな想いをそのまま静かに聴いてくれる、聴くちからのある大人がいなかった。だから、閉じこもるしかなかった。

だけど、もしあの頃、安心して過ごせる場所があったなら。何を言っても非難したり、比較したりすることなく、ただ受け止めてくれる大人がいたなら。毎日はきっと全然違っていたんだろうと思う。

学校でも、家でもなく、ただ一人の人間として認めてもらえる、どこにも居場所を見いだせない十代のためのサードプレイスがあったなら、「この世界に自分がいてもいいんだ」と安心することができたはずだ。

***

「親や先生とは違う価値観を持った、信頼できる大人と触れあえる場が必要かもしれないですね」

そのお母さんに、僕はそう伝えた。

「いま、本当にすごく大切な時期だと想うから」と。

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