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終わらない映画。「ルース・エドガー」のとんでもなさ

あなたは人間の本性を見抜けるかー。

そんなサスペンス調のコピーがついた映画、「ルース・エドガー」。見終ってみて、問い掛けられた「本性」を目の当たりにし、戦慄を覚えた。なんの気なしに見始めたが、とんでもない作品だった。(ネタバレ含む)

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優等生は、元少年兵

ルースはアフリカ出身の元少年兵。7歳でアメリカ人夫婦の養子となり、セラピーなどで少しずつ心の傷を治癒しながら成長した。高校生のいまは絵に描いたような優等生で、「マンデラやオバマの再来」と呼ばれるほど。だが本人は「悲劇を乗り越えた立派な人物」というイメージだけに括られることに息苦しさを感じている。

ほかの登場人物も、同じく周囲からの勝手な解釈(=レッテル)に苦しんでいる。黒人というレッテル、落ちこぼれというレッテル、アジア系というレッテル、女性というレッテル……。ルースはレッテルに苦悶する友人たちに寄り添い、力になろうとする。

小さな事件から、浮き彫りにされる本性

そんななか、小さな事件が起きる。ルースのロッカーから花火の入った紙袋が見つかったのだ。紙袋を発見した教師は「元少年兵」という背景から、彼に危険人物というレッテルを貼ろうとする。

紙袋については、「まったく知らない。誰かが入れたはずだ」と主張するルース。里親である夫婦はルースを庇うものの、少年兵という過去、大変な思いをしながらここまで育ててきた経緯などから、疑いと信頼の間を激しく揺れ動く。「僕は優等生か、でなければモンスターにしかなれないのか」とルース本人も苦悩する。

そこで、紙袋を発見した教師に悲劇が襲いかかる。教師はルースが自分への復讐として仕組んだ罠だと激怒するが……

感想だけでは終われない 

いかに人が「分かったつもり」で相手を見ているか。そのせいで「分かり合えない」か……。その現実が淡々と描かれていく。派手な演出も、感動の結末もない。答えのようなものは一切提示されず、問いだけを残して映画は終わる。

「あるなあ、やっちゃうなあ、そういうレッテル」
「だれもが闇を抱えてるよね、そうだよね」

見終わった直後は、そんな程度の受け止めだった。

けれど、この映画の凄みは、その先にあった。

「あの事件は誰が起こしたんだろう?やっぱり彼なのかな」
「あの時、あんな発言しているんだから、あいつが仕組んだはずだ」
「あのシーンは、彼が嘘つきだったというある種の伏線だったんじゃないか」……

気がつくと、そんなふうに犯人捜しをしている自分がいて、ぞっとした。

確証もないのに、それまでの背景や「あんなことを言ったから」「こんなことをしていたから」という理由だけで、「だからこれもあいつだ」と分かりやすい解釈をして納得しようとしている自分。

これじゃ、映画のなかの教師や里親と同じじゃないか……

見抜かれる「本性」とは……

実は、これがこの映画の本当の狙いだったのではないだろうか。

映画で描かれた勝手な解釈とレッテル貼り。まったく同じことを、観終わった後で無意識に追体験する。つまり、人間の「本性」を、ひとり一人が自分の中に見出し、愕然とさせることが、おそらくこの映画の製作者の意図なのだ。

だが、そこで愕然としない限り、観た人の中で映画がどんどん続く。それぞれのなかで物語が展開していく。気付かない限り、これまでと同じように悲しい現実が起こり続けるのだ。

こんなおそろしい映画を、僕はほかに知らない。

「すぐれた本や映画は、その後の人生を大きく変えてしまうほどの『体験』となる」というけれど、これはそれほどのインパクトが十分にある作品だ。

……でもやっぱり、犯人はあいつじゃ。。。。嗚呼………(悶絶)





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