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寒天と羊羹

 男女間における友達と恋人の違いはなんだろう。目の前でそば湯を飲む佑を眺めながら、ぼんやり考える。そば湯を飲む度にごくりと佑の喉仏が動くと、自分の心臓もどくりと動く。

 佑とは、もう四年になる。毎年、元旦には初詣に行って、互いの誕生日を一緒に祝って、夏は花火大会、バレンタインもクリスマスも一緒。職場が至近なこともあって、毎日のように顔を合わせている。けれど私たちは恋人ではない。

 佑には四年の間に何度か恋人ができている。それでも会う頻度はあまり変化しなかった。曰く「セックスくらいしかすることないし」らしい。なんでこんな男がモテるのかと首を傾げたくなるけれど理由はいくらでもある。とりあえず顔面は国宝級で背も高く、学歴も収入もあるのでモテないわけがない。

「食わないの? 海老もらっちゃうよ」箸を伸ばした手が、ぬうと視界に飛び込んできた。国宝級スマイルを浮かべた佑が、私のすぐ側に置かれた海老天そばの海老天を掴む直前だった。いつの間にか私の分も来ていたようだ。

 海老天そばから海老を持って行かれたら何のために海老天そばを頼んだのか、まるでわからなくなってしまう。「えっ、ダメ! 食べる!」慌てて阻止したら咄嗟に少し大きな声になってしまった。「すみません」と声をひそめて周囲の客に向かって頭を下げ、いたたまれなさを誤魔化すように海老天そばに箸をつけたら、反応よすぎ、と佑がにやにやしながら言った。

 佑にいじられるのも慣れているので、気にせず海老を持ち上げ口に運ぶ。良かった、まだ冷めていない。下の方の衣に少し汁がしみていたようで、汁の重みでいくらか衣がこぼれ落ちた。どんだけ夢中で喉仏みてたんだ自分。

 私のそばを見て佑が俺も同じの頼もう、と言った。言い終わる前に視線は既に店員に向かっていたので「佑いま天ざる食べたばっかじゃん」と止めるも引く気はなさそうで困る。けれど私もすぐに食べ終わるし、そろそろ店を出たい時間だ。

「そば羊羹のお店も行くんだよね、コンサート終わったら。そんとき食べたら」と提案したら納得したのか、いいこと言うね、と店員を目で追いかけるのをやめてからりと笑った。

 佑は私が勤める商業施設に入っているテナントの社員で、挨拶を交わすうち「奢るから」と誘われラーメン店をハシゴをしたのが始まりだった。三軒ハシゴして完食したのが気に入られたようで、以降あちこち食事へ連れて行ってくれるようになった。

 正直、自分の大きめ胃袋を満たすには財布が心許ない身ゆえ、はじめの頃は単に食費が浮くからという理由で会っていた。ある意味、胃袋を掴まれてしまったのだ。それでも食事をしながらいろいろ話すうち、何でも気軽に話せる間柄になった。

 今日も佑の知り合いが調布でコンサートをするというので、前後の時間を使って有名な深大寺そばを堪能しようという趣旨で今に至っている。調布には何度か来たことがあるけれど、深大寺に来たのはこれが初めてだ。

 バッハだっけ? と聞くと、佑は少し考え込むように斜め上を見たあと「いやバッハじゃない。なんだっけ、ラフォーレみたいな名前の作曲家とかいろいろ。フルートとヴァイオリンだって。あとピアノ」と答えた。

「ラフォーレは原宿でしょ」私たちはクラシックに明るくない。「なんかそんな名前言ってたけど忘れた。行けばわかるっしょ」バッハ、モーツァルト、ショパンとか、誰でも知っているような作曲家しか浮かんでこない。ラフォーレ……。誰だっけ。

「あ、これ今日のやつじゃない?」店を出て歩いていたら、コンサートのポスターが貼ってあった。「そうそう、調布国際音楽祭って言ってた」佑が思い出したように言ったけれど、今これ見て読みあげただけだと思う。もともとクラシックのコンサートに興味があるタイプではないのは知っている。

 ポスターには、フォーレ、マルティヌー、ゴーベールと知らない作曲家ばかり書いてあって「フォーレだってよ」と伝えたら、ほら似てたでしょ、と得意げに佑が言った。「人名店名は一文字違いでもダメだよ」と言ったら、さすが受付嬢、と返され、時々視察に来る本社の偉いおじさん連中が何度言ってもそう呼ぶのをやめないのを思い出した。

「いまもう嬢って言わないの、係。浸透しないのなんでだろ、ジェンダー系コンプラできてから何年も経ってるのに」と軽く愚痴をこぼしたら「嬢のが言いやすいんだよ、うけつけがかりとか無理。あと男のロマン」とダメ押しされたので「オヤジじゃん。三十代でもそうなん?」と少しダメージを与えようと思ったのに「男は何歳でもそうだよ」と当たり前のことを当たり前のように言う口ぶりで躱されてしまった。

 開演前に二人で楽屋へ行った。佑は知り合いと言っていたけれど、佑の視界から外れた瞬間に阿吽像みたいな顔で睨まれた。あれはたぶん佑のこと狙ってるんだと思った。それでもコンサートは思いのほか楽しかった。曲の合間に軽快なトークが挟まり、クラシックを詳しく知らなくても大丈夫という安心感もあったし、なにより生の演奏は迫力があって圧倒された。

 終演後、私たちは深大寺に戻り、夕食のそばを食べに行く前についでだからと誘って境内を訪れた。私にはもうひとつ目的がある。実行するか迷ってもいたけれど、阿吽像にむかついたのでヤル気が出た。まずは出来るだけ自然な足取りで、御守りを買うべく授与所へと向かう。

「なに、御守りでも買うの」「うん、縁結びの」「へえ、縁結び」計画通り、佑が食いついた。自分は恋人を作るくせに、佑は私のこういう話にはあまり良い顔をしない。佑のほうを見ずに淡々と「うん」とだけ答えると「誰の」と佑が訊いてきた。「私の」「誰とよ」「佑と」

 言った! 返事を待つ。願わくば期待通りの。佑が黙る。私も黙る。沈黙が授与所の庇の下を更に暗くする。心臓も胃も腸も挽き肉になってぐちゃぐちゃ握り潰されているみたいな胸焼け。頭にものすごい血流を感じて首もこめかみも顔も全部痛い。こんな沈黙がいつまでも続いたら血を吐いて死んでしまう。

 何秒かして「俺はダメだよ」轟々と耳の奥を流れる血流に乗って、低くて小さな声がしかし強い意思を持って通り過ぎていった。瞬で血の気も引いた。振られた。予想はできていたけれど、せっかくだから理由くらい知りたいと思い「なんでよ」と訊いた。

「おまえと俺は似すぎてるから無理」「わけわかんない。似てたら合うんじゃないの、普通」「俺は俺が好き、おまえもおまえが好き。だから無理」意味がわからなかった。でも何度も無理無理言われたら無理なんだろうと理解するより他ない。

「深大寺、ぜんぜん縁結んでくんないじゃんね」と不貞腐れたら「寺に失礼だな、まだ金も払ってないのに」とツッコまれた。「そうだけど。買う前にフラれたら買う意味ないじゃん」と泣きたいのを堪えて言ったら「別の良縁に恵まれるんじゃね」などと無責任なことを言うので「恵まれなかったらどうすんの」と軽く背中にグーでパンチをした。

「そんときは俺のメシにずっと付き合えばいい」「それを付き合うっていうんじゃないの、恋愛的に」「違う」問答の末また振られた。なんだか授与所の人にも申し訳なくて、これください、と持っていた恋愛成就の御守りを差し出した。「佑の恋愛の定義どうなってんの」訊いたら「まだ理解が足らないな」とチベットスナギツネのような、何か言いたいことがありげな無表情で佑が言った。

 結局、恋愛成就に効くという深沙堂へ行く前、御守りを買うより前に私の恋は砕け散った。気まずくなって夕食は食べないで帰るかとも思ったのに、佑は何事もなかったかのような朗らかさで「じゃ、海老食い行くか」と笑った。

 羊羹目当てで選んだ店の海老は、ヤケクソで値段が一番高いやつを選んだ。大きかった。単純に美味しかったので、振られたことがなんだか少しどうでも良いと思えた。

 食後に例のそば羊羹をいただく。佑が「これは……そば寒天だな。羊羹じゃない」と呟くので「羊羹でしょ普通に」と返したら「俺の羊羹はもっと餡子なんだよ」と羊羹について語りだした。「羊羹の定義もどうなってんの、羊羹だって寒天じゃん」とツッコんだら「まだ理解が足らないな。そういうとこだぞ」と、またしてもチベットスナギツネのような、何か言いたいことがありげな無表情で言われた。

「なにがよ」と訊き返すと「俺の彼女になるやつはみんな俺が言えばそうだねって言う」と、アホみたいなことを言ってきたので「バッカじゃないの。そんなんだからセックスしかすることなくなるんでしょうが。ちゃんと会話しなさい会話」と呆れて窘めると「めんどくせーもん」と佑は横を向いた。

 そば羊羹を気に入ったらしい佑は二度おかわりして持ち帰りまで買っていたので「羊羹じゃないって言ってたのに買ったんだ」と茶化したら「関係ないよ。好きになったら毎日でも食いたい」と佑が拗ねた。「飽きないんだ」「うん、飽きない」佑は、まっすぐ私の目を見て言った。

「明日も来るか。深大寺の中でコンサートあるらしいよ、寺でバッハだって。なんかすごくね」と、佑が私の背中を強く叩いてきた。「えー、そんな急に言われても休みとれるかわかんないよ」「だからそういうとこだって。俺の彼女だったらすぐに」「はいはい。まあ今そんな忙しくないし訊いてみるよ。お寺でバッハも聴いてみたいし」

 スマホを取り出そうとして鞄に目をやると、佑の持っていたそば羊羹の袋が歩きに合わせて揺れていて、さっき鞄に付けたばかりの御守りと微かに触れあった。

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