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「推し」と言うのをやめてみよう

こんなところに来た物好きさん。
お疲れ様です。ありがとうございます。

タイトルの件だが、そのままの意で好きなキャラクターや人物等を「推し」と表現すのをやめてみよう、という事だ。

いやいや何を言っているのかと思われるかもしれないが、「推し」という言葉が雑多に多数の語義を包含してしまっているからだ。
近しい言葉を挙げるなら自分は「てぇてぇ」も使いたくない。


例えば「AとBてぇてぇ」と一口に言っても、「口では悪く言いつつAの事を上手くフォローしてるBの信頼が垣間見えて良い」「Aの為に必死で体張れるBとの関係が熱い」と言った別の言葉で表せる物も「てぇてぇ」で済んでしまう。(例がなんか偏ってるのは軸足が特撮界隈の人間だからなので仕方ない。)
日本語は折角多様な表現が出来る言語だ。自ら語彙を潰しに行くのは少々勿体ない。

それでは主題の「推し」に戻ろう。
これも「てぇてぇ」同様、具体的表現を潰してしまっている。「大好き」「気に入っている」「気になるから何となく追い掛けている」度合いは様々だがこれら全部「推し」の一言で片付いて表現出来る。
だが、そこにグラデーションがあった物を単色で塗り潰してしまう。
一々長ったらしい表現を使うよりも便利な言葉があるのだからそれを使った方が楽ではないか、という気持ちは理解できる。
ただそれでは勿体ないよね、という個人的な感想だ。他者に強要するつもりはない。


また、個人的に「推し」という言葉にはある種の危険性も感じている。それは否定的な言葉を使いにくくしているのではないか、という事だ。
人間誰しも実在でも架空の人物であっても全てが全て容認できるとは限らない。何か気に入らない要素・行動があったとして、それを批難する事は石を投げる行為のように感じている人も多いのではないか。
好きの対語には嫌いがある。「Aはそれなりに好きだが、○○な点は嫌い」と対称性を持って使えるが、「Aは推しだが、○○な点は嫌い」と言うのは前述の通りグラデーションを潰してしまっているので対称性が薄くなっている。グラデーションが潰れた結果、そこそこ好きなだけの相手に推しと言う表現を使ってしまうと、推し=上位の好きと第三者に見做される事も多いだろう。
その結果石を投げる、石を投げている様に感じてしまっているのか、推しの事は盲目的に好きであるべきという空気を感じる。


まとめると、
①便利な言葉ではあるが、その中に含有される言葉が一言で片付いてしまう。
②全てを好きでなければいけないと言う空気を感じる。
上記2点から、物は試しに「推し」と言う表現を封印して代替表現を使っていこうと思う、と言う宣誓でした。


面白かったら高評価を是非。
ではまた気が向いたら。
……アウトプットと継続する訓練も兼ねて週1くらいで何か投稿したいよね。

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