中根すあまの脳みその96

楽しい時間を過ごせば過ごすほど、楽しくない時間を増やさなければならないと考えるようになったのは、一体いつからだろうか。
今の私は、楽しいと感じることに対して無意識的に罪悪感を覚えてしまっている。その罪悪感を払拭するために、昼間楽しかった分夜は頑張ろう、や、楽しかった気持ちを原動力にして明日から頑張ろう、などとあくまでも「頑張る」ために「楽しんだ」のだと自分自身に言い聞かせる。
それで本当に頑張れたのならなにも問題はないのだが、なんだかんだ理由があって頑張れなかった場合、私は楽しんでしまったことを宇宙に謝罪するはめになる。宇宙は私に許しを与えないので、その罪自体を忘れてしまうのを待つしかない。これがなかなか虚しい作業なのだ。

思えば幼い頃から、楽しいことは苦労の先にあると認識していたような気がする。
これは両親のしつけが厳しかったとか、そういうわけでは決してなく(むしろ私の両親は優しすぎるくらいだった)、勝手にひとりで導き出した考え方だった。
小学生になって、平日は学校に行き、週末は休むという習慣ができると、5日間苦手な算数の授業や、つまらないあの子の長話を乗り越えることによって、楽しい週末が訪れるのだということを理解するようになる。平日の自分の頑張りによって、休日を心置きなく楽しめるのだという意識が生まれる。この意識こそが、私が「楽しい」に対して覚える罪悪感の元凶なのではないかと思う。
平日、思うように物事が進まなかった場合、週末もそのことが頭をよぎり、でも私今週頑張れなかったからな、と心から楽しむことも休むこともができなくなってしまう。最初はそれだけですんでいたのだが、成長するにつれてその意識が様々な要素に派生して、今日は昼間何も成し遂げられなかったから眠ってはならない、とか、昨日何も頑張れていないのに今日遊びに行っていいわけがない、とか、今日は楽しかったから明日から自分を追い込むぞ!、とか、そういった思考に自然に辿り着いてしまう、アスリートのようにストイックな脳みそが完成されてしまった。気づいたらそうなっていた。

難しいのは「頑張る」の定義が日々更新されていくこと。
小学生の頃は、“学校にちゃんと通う”だけだったのが、自分で自分のハードルを上げまくり、今では“学校に行って(今はオンライン授業を受けて)仕事をしてさらになにかを創作する”という極めて難儀なものになってしまった。“なにかを創作する”の部分に関しては日によって取り組むべき内容が変わるし、なにかを生み出してもそれに納得できなくて、「頑張った」と思えないこともある。
それに加えて最近は、様々な事情で“仕事をして”の部分が満たせないことが多々あり、「頑張った」認定がなかなか下せない。そうなると、せっかくの楽しい時間が、「頑張る」ことを強要してくる怪物のように思えて、悲しくなってしまう。

今日も自分はよく頑張った!
毎日自信をもってそう思えることこそが、私にとってのいちばんの幸福であると、強く感じる今日この頃である。とりあえず、今日は夜中に卵かけごはんを食べるのを我慢することで「頑張った」ポイントを稼ごうと思う。


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