中根すあまの脳みその175

年末年始が終わってしまって、泣いている。
なんて幸せな日々だったのだろうと、さめざめと、泣く。

昨日が2023年のバイト始めだった。
私のはたらく古着屋は商業施設の一角に店をかまえているので、朝、店を開けるときには、入館の書類に記入してから、警備員さんに鍵をもらう。従業員入り口から入って、馴染みの警備員さんに店名を告げると、「はーい、ハッピーさんねー」と弾んだ声で返される。言わずもがな店名に「ハッピー」が入っているからなのだが、ハッピー、すなわち幸せそのものになったようで、無論そんなことはないのだが、なんだか嬉しくなる。それと同時に、なんだか、ギリギリピン芸人にいそうな響きであるとも思う。

店は暇だ。
客は少ないし、終日ひとりで店番をするので、孤独死せぬよう気を付けている。
それを見越して、店長からさまざな作業を任されてはいるが、それらをこなすとき、とくに深い思考は必要ないので、必然的に心の声がものすごく煩くなる。ずっとしゃべっている。

前に代々木公園でさ、まだ売店が開いてる時間帯、てかあの売店、まじで閉まるのはやいんだよね、3時には閉まる気がする。たぶん。シャボン玉とか、バドミントンとか、いつもいいなーと思うんだけど、結局買わないんだよな。まあ、21歳がやることでもないんだけどね。

と、まあ、こんな調子で、とりとめもない回想が、勤務時間中(8時間)ずっと続くもんだから、途中でうるさい!と文句を言いたくなるが、何分その相手は自分自身なのだからしかたがない。

印象に残る光景というのは、こういうときに思い起こしやすい。
代々木公園の昼下がり、まだ売店が開いていたので、おそらく15時前。
一組の親子がシャボン玉で遊んでいた。母親が、例の特殊な形のストローに息を吹き込むと、鰯の大群のごとく、大量のシャボン玉が出現する。“無“から大量の“有“が一瞬にしてうまれる様は、他人事である私の目にもおもしろくうつる。シャボン玉すげえと思いながら少し見惚れる。すると、どういうわけか、次の瞬間、せっかくうまれた”有“が今度は”無“に還ってしまった。男の子が、とんでもないパワーで、それらをすべて叩きのめしてしまったのだ。
割る、なんて生易しい言葉では表現ができない。間違いなく彼はシャボン玉を叩きのめしていた。顔色一つ変えずに大量のシャボン玉を生み出し続ける母親。その様子に、暫し圧倒される。
ドドドっと流れ出したシャボン玉が、ドドドっと消えてゆく。
繰り返されていくことでその行為は、徐々に作業感を増してゆき、なんだかひどく無意味であるように感じられた。無論、男の子はそれが楽しいのだ。決して無意味ではないのだが、客観的にみていると、生まれたそばから失われるシャボン玉に存在する価値などないように思えた。せめて、綺麗~のひとことくらい、浴びせてやりたかった。

そこまで考えて、手元に視線を落とす。
ラックにかけられたセットアップのジャケットと、110円の値札、それをつけるための銃のような道具。いくらなんでも安すぎやしないか?と若干不安に思う。
そして次の瞬間、私の思考はまた、いつかの光景に飛ぶのだった。

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