中根すあまの脳みその155

傘をさすのが下手だという自覚があった。
傘をさしていても、さしていないのと同じくらいに、ぬれるのだ。確かに私は痩せ型の人間ではないが、傘というものが意味をなさないくらいの巨体の持ち主というわけでもない。選ぶ傘が悪いのかと思い立ち、店に並ぶ他のものと比べて明らかに大きな傘をさしてみたこともあったが、結果は、いつも通りにぬれた肩に、あの人の傘でかくね?と思われているのではないか、という自意識過剰な思考がもれなくついてきただけであった。

雨の日。
友人と並んで歩く。それぞれ傘をさしている
。近頃の私はもはや、傘など生活の邪魔でしかないという思想のもと、アンチ傘人間と化していたので、ひとりのときは余程の大雨でないと傘をささないのだが、さすがに人といるときにはさす。傘をさすことで、常識的な人間であることを演出する。自分は雨の日にはちゃんと傘をさす人間ですよ、と。
だいたい傘などという道具は、機能面に問題がありすぎる。雨を防ぐ、という目的を果たした後、その先のアフターケアがまったくない。いくら傘で雨を防ぐことが出来たとしても、それを使い終わった際に、雨粒を払い、払いきれなかったそれで手をぬらしながら、傘をたたむという、必要不可欠な作業によって、ある程度の不快指数の上昇は免れない。
その上私にとってみれば、雨を防ぐことができるという唯一の強みでさえも発揮されないのだ。傘を排除した人生を選ぶことも致し方ないだろう。

隣で歩く友人は、傘に対して疑問を抱かないのだろうか。当たり障りのない会話を続けながら、疑いの目を彼女に向ける。そんな視線に気づくことなく、楽しそうに歩く彼女の肩はぬれていなかった。腕も。足も。腹も。肩から下げられたショルダーバッグも。彼女はしっかりと傘に守られていた。
では何故。
今度は己の姿を捉える。着ている青いシャツは、ぶつかった雨粒によって濃紺へと美しい変化を遂げていた。てめえは青だろうがよ。
腹立たしく思う。歩く。歩く。その様子を隣の彼女と見比べる。すると、あることに気づいた。

私は、歩くときに腕を振りすぎているのかもしれない。

私の両腕は交互に、規則的に、傘から飛び出してゆく。それによって、体の様々な部位がぬれていく。飛び出した腕が、丁寧に、私を雨にさらしている。
その動きはどう考えても、必要とは思えなかった。一体私はいつから、やたら元気な腕のせいで、無駄な労力を消費していたのだろう。私は途方もない気持ちに暮れた。
昨日食べたカルボナーラうどんがさ、
口ではまったく関係のない言葉を吐きながら。

傘へ
ごめんなさい。
あなたのせいじゃなかった。
全部私のせいでした。
私の腕の動きがやたら元気だったばっかりに、あなたの仕事に疑問を持ってしまいました。
もし許してくれるのなら、もう一度私を雨から守ってはもらえないでしょうか。
すあまより

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