ほていをつぐもの

「神様みたいなお仕事だと思います」
何の脈略もなく突然現れた、素性の知れない客がそう言った。
「どこが?」
そう問う間もなく、離れてゆくその人。
神様、神様。意味もなくその言葉を反芻してみる。やっぱり意味はない。
そうだ。そうなのだ、自分は。

神様なんかじゃない、全然。


            

                                     👼     
                             

「令和の時代に我々の後継者が現れた」

興奮に鼻息を荒くしてそう言ったのは、弁財天だった。
七福神のなかで唯一女性の神である彼女は近頃、得意の琵琶をほったらかして、天界から熱心に日本の“ある”地域を眺めている。毎日、夕方くらいの時間になると、下界から祈りをささげている悩める信者たちにひらひらと手を振って、その地域の観察に精を出す。感情に左右されず、何があっても冷静沈着。論理的思考の持ち主で、目的に向かって無駄なく効率的に進み続ける彼女が、神としての役割以外のことでこのように夢中になることは極めて珍しい。これには、豊富な経験と深い思想から大抵のことには驚かない6人の男性陣も首を傾げていた。
歌舞伎町、というのがその地域の名らしい。
第二次世界大戦後に歌舞伎の演舞場が建設されたことが名前の由来であるその町は、今では当時と全く違う姿をなしている。そう説明する弁財天の口調は、いつも穏やかに、ゆったりと話す彼女のものとは思えぬほどに早口で、熱を帯びていた。ぽかんと口を開け、神様らしからぬ間抜けな態度で話を聞いている6人の男性陣にしびれを切らした弁財天は、とにかく一度“そこ”を覗いてみろと、彼らに言い放った。


弁財天の言葉に従ったのは、毘沙門天と布袋尊のふたりであった。
眉間に深く皺を寄せ、険しい表情を浮かべた毘沙門天と、目尻に深く皺を寄せ、穏やかで温かい微笑みを浮かべた布袋尊。見た目は対極にあっても、ふたりの思考は似通っていた。必勝の神であり、馬鹿真面目で拘りの強い毘沙門天は、同じ神として尊敬に値する弁財天の言葉はおざなりにすべきでないと考えた。福の神であり、度量が広く円満な人格である布袋尊もまた、弁財天のあの様子はただ事ではないと悟り、従うことを決めたのであった。
残りの神々はと言えば、釣り人の応援だとか各家庭の台所の安全を護るだとか、世にも神様らしい言い訳を並べて、ややこしそうなその話題を跳ね除けてしまった。そう言っておいて彼らは、今頃雲の上で昼寝でもしていることだろう。


さて、毘沙門天と布袋尊は、天界から歌舞伎町を眺め、弁財天の言う「令和の時代に現れた我々の後継者」の姿を探していた。しばらく観察していて分かったのは、その場所はなんだか物々しい雰囲気に包まれていること、あまり綺麗な場所ではなさそうであること、だった。
「こんな騒々しい場所に、弁財天をあれほど饒舌にするような何かがあるのか」
まったく訳が分からない、といった調子で毘沙門天が呟く。布袋尊は、それには答えずに、ただ微笑みをたたえている。頑固で意志の強い毘沙門天と、穏やかなキャラクターで周囲に愛嬌を振りまく布袋尊。一見、正反対のように思えるふたりだが、実は妙に馬が合うようなところがあった。そのため、言葉が少なくてもあまり困らないのである。ふたりは黙々と下界を眺め続けた。
時刻は17時を過ぎ、徐々に賑わいを見せていく歌舞伎町。ひとりで歩く女にしきりに声をかける男、聞こえるか聞こえないかの声で呼び込みをするメイド服を着た女、政治思想のようなものを大声で叫ぶ男、彼らの声が混ざり合って、ひとつの大きな渦をつくりだしている。
「おや」
布袋尊は、その渦の中から異質な気配を察知した。正体を探ろうと目線を移動させると、そこには行列があった。列に並ぶ人々の服装が極めて似通っていることから、それは、人気のラーメン屋に並ぶような気軽なものではないように感じられる。その証拠に、列をつくる人々ひとりひとりの中に眠る、恐ろしく熱いような、それでいて冷たいような“感情”が布袋尊には透けて見えた。違和感を覚え、毘沙門天にそれを伝える。
「おい、あれを見てくれよ。あの行列」
「どれだ、どれだ?」
「あれだよ、あの、こんびにとやらの隣の、」
「ふぁみりーまーととやらの隣か」
「そうだ」
「ああ…。あれか。あれは、たしかにおかしいな。複雑な“気”のようなものが見える」
毘沙門天は眉を顰める。
「あれを見たら、弁財天もきっと興味を持つだろう」
「よしきた、あの行列を辿ってみよう」
神は天界からどんな景色でも見ることができる。毘沙門天が、行列の先にある建物を指でなぞるようにすると、その建物全体がふんわりと透けて中の様子が露わになった。ふたりは、行列に並ぶ人々の姿を注意深く観察した。やはり彼らの心の中では、嬉しいような悲しいような、楽しいような腹立たしいような、相反する感情が激しく交錯しているようである。
「おそらく、弁財天が熱心に眺めていたのは此処だろう」
柔らかな笑みを浮かべたまま、布袋尊が言う。毘沙門天もそれに頷いたようだった。彼らはすでに、この場所に「我々の後継者」がいることを確信していた。行列に並ぶ、複雑な感情に支配された人々の姿というのが、毘沙門天や布袋尊を含む、“神“に祈りをささげる信者たちの姿と完全に一致していたからだ。この行列の先に、”神“はいる。彼らはそう直感していた。だが、列を辿ってみても、そこには粗末な舞台があるだけで肝心の”神“、弁財天の言う「我々の後継者」の姿は見当たらなかった。
「…いないじゃないか」
怪訝そうに毘沙門天が言う。
「いや、おそらくこれから現れる。弁財天はいつも、午後6時を回ったあたりからその眼差しに
熱を持たせているような気がする。私の思い違いでなかったらだが」
布袋尊は、相変わらず穏やかな表情で、それでも確信めいた調子で、そう答えた。
「ほう。相変わらず、人のことをよく見ているな」
そう言って毘沙門天は口角を吊り上げた。
ふたりはそのまま様子を窺うことにした。行列に並ぶ人々は忙しなく会話をしている。まるで、己の存在価値を確認するように、相手に見せつけるように、言葉をぶつけていく。その胸に喜びと悲しみを忍ばせながら。中にはひとりきりで佇む者もいた。そういった人は、周りの人間とは違う己の価値観に誇りを持っているようでいて、本当にそれが正しいのか不安に思っているようでもあった。その人の胸にもきっと、様々な種類の感情が共存している。神々の目にはその空間が、窮屈で楽しいものに思われた。ふたりは飽きることなくそれを眺めていた。


時刻は午後5時45分。行列と舞台とを隔てていた壁が解き放たれ、期待に胸を膨らませていることを悟られぬように、わざと平然を装った様子で人々が流れ出てくる。己の信心を表に出すことをためらっているように見える。
「祭りが始まるようだな」
布袋尊が静かにそうつぶやいた。
そう、それはまさに祭りの前の様相。信者たちが、神を迎える準備を始めたのだ。
一口に“信者”といっても多くの種類が存在することを、神々はよく知っていた。神に自分の存在を認識させたい者、できるだけ神から遠くに身を置きたい者、己を神に近い存在だと信じ込みたい者。信者たちは、己がその中のどれにあてはまる人間なのか、行動や言動のひとつひとつにその主張を滲ませる。神を迎えるのに最善の状態というのは人によって違うのだ。そのため、その空間には適度な隙間が空いていた。似通った服装に身を包んでいても、その本質は全くもって違うのだということが窺い知れる光景であった。
「あそこいるのは、あんたの信者みたいだな」
毘沙門天が指さす先にあるのは、周りの人々の話に笑顔で相槌を打つ人間の姿だった。時々、自身も口を開いてなにかを話している。その人間が存在していることによって、その場が和やかに保たれているような雰囲気があった。
「あそこにいるのは、あんたの信者だな」
毘沙門天に対抗するように、布袋尊もある一人を指さした。その先にあるのは、舞台のすぐ前でたったひとり、意志の強さを感じさせられるような表情で立ち尽くしている人間の姿だった。
ふたりは顔を見合わせて苦笑した。神の性質と似たような要素を少なからず持つ者が、信者には多いということを、よく知っていたからだ。


時刻は午後6時。突然、煌々と光っていた照明が消える。ふたりの神は、まだ見ぬ“神”の登場に好奇心を抑えきれずにいた。数秒経って、明転し、煌びやかな音楽が鳴り始めたかと思うと、舞台の袖からひとりの若者が現れた。精悍な顔つきでじっと前を見据えている。毘沙門天と布袋尊は顔を見合わせる。おそらく考えていることは同じだろう。確かにその若者は、なにかひとつの説得力のようなものを感じさせる佇まいではあるが“神”というには些か未熟すぎる。
「あれに我々の後は任せられん、」
毘沙門天がそう口走ったその瞬間、舞台袖からもうひとりの若者が現れた。しばらく経ってもうひとり、その後にまたひとり。その様子を黙って見ていた布袋尊は、何かを察したようにふっと笑みをこぼした。
「ありゃあきっと、7人だな、毘沙門さんよ」
その言葉通り、舞台の上の若者の人数はどうやら7人ですべてのようだった。一番初めに現れた、未熟な印象を受けた若者の表情が、今はもう全く違っていたことからもそれが分かった。彼の目の中で揺らいでいた頼りなさは消え、誇りと自信をそこに宿している。
「こりゃ面白い。7人でひとつの神、すなわち我々と同じというわけか」
そう言う毘沙門天の表情には、挑発的な色が滲んでいる。彼らが「我々の後継者」にふさわしい
か見極めようとしているらしい。それとは対照的に、布袋尊は微笑ましげに7人の若者を見つめていた。


一度音楽が消え、また新しい音楽が始まる。舞台を眺める人々の目が、それまでとは違った色に変わるのが見て取れる。どうやら祭りはここかららしい。7人の若者が一斉に動き出した刹那、それまで幾多の複雑な感情がひしめいていたその空間が、ひとつのまとまった感情に統一されるのが、ふたりの神にははっきりと分かった。若者たちは舞い、そして歌う。まるで前世からこうしていたのだというように、自然に、当たり前に。色とりどりに瞬く照明に照らされたその姿には、力強さと儚さが共存し、奇妙な存在感を放っていた。歌唱力や身体の動きが特別優れているわけではない。だけどそこには、信じられる“何か”があった。信じてしまうような“何か”があった。
舞台に立つ若者たちの表情は、一見純粋な笑顔に思われるが、そこにはそれぞれ違った色が見え隠れしている。幸福なのか絶望なのか、野望なのか怠惰なのか、見ている人々には決して分からないその色が、浮かんだ表情をなんとも慈悲深いものに見せている。信じてやまない、だけど信じ切ってはいけない。そのような心理が信仰の根本にはあると、ふたりの神はそう認識していた。その上で、今天界から眺めているこの空間には“神”と“信者”が存在していると、そう悟らざるを得なかった。いくつかの単語を組み合わせるだけでは到底表現しきれないような複雑で難解な世界が、そこには在ったのだ。
「あの者たちは、我々とは違うな。だけども、」
胸の内を整理するように、毘沙門天が言う。
「だけども、確かにあれは“神”だ」
若干の悔しさをはらんだ毘沙門天の表情に、布袋尊は思わず吹き出す。
「なんだ、あんた、悔しがることじゃあないじゃないか。私たちは私たち。あの者たちはあの者たち。時代によって必要とされる“神”の形も違うってもんよ」
「そうは言ってもなあ。一応私にもぷらいどってやつが、」
「その様子だとあんた、あの者たちのこと結構気に入っているな?」
縁起の良さそうな笑顔を浮かべた布袋尊が、茶化すようにそう言う。毘沙門天は黙りこくって、舞い踊る若者たちへ視線を戻してしまった。
「なあ、しばらく見ていて思ったのだが、」
布袋尊は、毘沙門天の様子に構わずに話し始める。
「あの者たちは皆同じに見えて、人々に与える御利益がそれぞれ違っているのではないか?ほら、あの端っこの背の低いの。あやつは舞うときの動きが他の者より激しい。常に跳ねているような感じだ。いかにも無病息災を願いたくなるような、そんな感じがある」
その言葉を聞いた毘沙門天は、興味を惹かれたような様子で、若者たちひとりひとりの仕草や態度を観察し始めた。注意深く眺めていると、なるほど布袋尊が言ったように、各々違った特徴を持っていることが見て取れる。その中で毘沙門天はひとりの若者に既視感を感じた。その正体はなんだろうと、暫し考え込む。その若者は、歌い踊る中で、時折信者の方に目線を向け、指を指すような仕草をした。それを受けた人間は、心の奥底から幸福だというような表情を浮かべる。他にもこの仕草をしている若者はいたが、そこに込められた意味合いが、どうやら違っているように思われた。その若者は、愛嬌に満ちていた。一挙手一投足に愛情が込められているような、ぬくもりと温かさがある。それでいてその指先には、向けられた相手の心のうちを見透かしてしまうような不思議な力があった。人々を深く愛し、理解した上で救いの手を差し伸べている。そこまで考えたとき、毘沙門天ははたと気づく。彼は、布袋尊であった。
「あやつは布袋、あんたにやり口が似ている」
毘沙門天がそう言うと、布袋尊はまるでそう言われることが分かっていたかのように頷いた。
「あやつは、あんたのように、人間を愛しその上で御利益を与えている。そういえばあんた、占いが得意だったよな?あやつのあの見透かすような不思議な力は、確かに占いをやらせたらうまそうだ。愛嬌だけでなんとかなると思っていそうなところも似ている」
「最後の部分にはあんたの偏見が混ざっていそうだが、あやつが私に似ていることは認める。では毘沙門、あの若者はどうだ?」
布袋尊は笑みを浮かべながらひとりの若者を指さした。その先には、舞台中央で、力強く踊っている若者の姿があった。瞳に強い意志を宿し、足の指先にまで魂が込められているようなその様は、どこか殺気のようなものさえ感じさせた。まっすぐ前を見据え、己と対峙し、さらなる高みを目指すその姿勢は、先程の布袋似の若者のようにひとりひとりに報いを与えるわけではなかったが、それでも確かに人々を救っていた。己に厳しく接しているからこそ、他人に与える優しさとは、思いやりとは何たるかをよく心得ているようなその佇まいは、まさに毘沙門天であった。
「あやつは毘沙門、あんたにやり口が似ている」
布袋尊は、先程の毘沙門天の口調を真似てそう言った。黙って頷く毘沙門天。
ふたりの神は、舞台上の7人の若者を「我々の後継者」だと言った弁財天の意図が分かったような気がしていた。7人それぞれに違った歴史と人となりがあり、それを武器にして、己のやり方で人々に報いを与えるその様は、参拝すると7つの災難が除かれ7つの幸福が授かるとされている、7人の神の総称「七福神」の姿と重なって見えたのだ。
「それでは、あの光る棒は、」
毘沙門天がふと呟く。信者たちが手にしている、色とりどりに輝く棒状の物体が何なのか、なんとなくずっと気になっていた。
「そうだな、きっと、己がどの神を信仰しているのかを示すものであろう。ほら、衣の色と同じ色が使われている」
楽しそうにそう答えた後で、布袋尊は、ふいに悪戯を思いついた子供のような表情でこう続ける。
「我々もあの制度を取り入れたらどうだろうか。七福神の中でも最も信仰している神を、あの棒で示してもらうのだよ。きっと天界からもよく見える。そうだな、恵比寿が赤、大黒は…黒か?名前に黒が入っているからな。それから、」
無邪気な笑顔でそう話す布袋尊。その様子を黙って見ていた毘沙門天は、下界からの視線に気づき、思わず息を呑む。その瞬間、布袋尊を思わせる特徴を持った若者が、こちらを向いて微笑んだのだ。
「…あれは、布袋を継ぐ者だ」
毘沙門天は、小さな声でそう呟いた。
やがて音楽が鳴り止む。舞台上にほんのりと熱を残したまま、祭りは終わった。


長い時間下界を観察していて疲れてしまった毘沙門天と布袋尊は、雲の上でだらだらと過ごしていた。そこへ、なにやら残念そうな表情を浮かべた弁財天が話しかける。
「え?毘沙門さん、布袋さん、参拝の時間まで見ていかなかったのですか?」
「参拝の時間?祭りはあれで終わりだろう?7人そろって帰っていったぞ」
不思議そうに毘沙門天が言う。
「違うのですよ。あの後に参拝の時間があるのです。神と信者とが直接交流するのですよ。天界で暮らす私たちには絶対できないことだから、見ていておもしろくて。最近毎日見に行ってしまうから、琵琶の稽古がおろそかになってしまっているのです。だから今日はおふたりに様子を聞こうと思っていたのに」
桃色の神のこと、もっと知りたいんです。そう呟く弁財天の肩はがっくりとうなだれている。
「ほう。桃色の神か。確かにあやつは、弁財天のようなさわやかさと強かさを持ち合わせているような感じがあったな」
布袋尊のその言葉を聞いた弁財天は、それまでの落ち込んだ表情から一変、途端に元気になってこう言った。
「さすが布袋さん!よく見ていますね。そうなんです、桃色の神は私と通ずる部分が多いように思えて…。そうだ、よかったら明日、一緒に見に行きませんか?参拝の時間までちゃんと!」
「ぜひそうしよう。私も気になるところがたくさんあるしな」
盛り上がる布袋尊と弁財天。そんなふたりを横目で見ながら、毘沙門はわざとらしく声を張り上げて言う。
「私もご一緒してもいいかな?私の後釜であるあの若者の様子を見守らなくてはならないからな」
その白々しい口調に、本人も含め3人の神は、顔を見合わせてひとしきり笑い合ったのであった。
翌日、身を寄せ合って日本の“ある”地域を眺めている、毘沙門天、布袋尊、弁財天の姿をみて、残りの4人の神が首を傾げたのは言うまでもない話である。

                                     

                                    👼


床にごみが落ちている。
それはチョコレートの包み紙だった。誰が落として誰が放置したのか、大体見当がついてしまうのが少しだけ悲しかった。拾ってごみ箱に捨てようと手を伸ばす。すると、目の前からにゅっと、人間の腕が現れた。金色に輝くそのごみに同時に触れそうになって、思わず手を引っ込める。相手も同じ行動をとったらしく、結局ごみはそこに置き去りになっていて、それがなんとなく笑えた。
「捨てちゃうね」
伸びてきた腕の持ち主は、あまり感情がこもっていない声色でそう言うと、価値を失ってうなだれているチョコレートの包み紙をそっとつまみあげ、ごみ箱へ捨てた。
そうだ、この人はこういう人だった。
ぼんやりとそんなことを思う。ふたりきりになるタイミングなんて滅多にないから、この人がこうだってこと、いつも忘れてしまうな。
満ち足りることなんてない、常に何かに急き立てられるような日々の中で、この人はいつだって自分の時間を生きていた。今だって、落ちているごみを見て、ただ「捨てなきゃ」と思っただけで、その思考の裏にこのごみを落として放置した人間への悪態なんて存在しない。大したことはない、この人より自分の方が、ほんの少し人間らしいだけだ。分かっている。

仕事と仕事の間の曖昧な時間。
いつもは、我に返った途端にやって来る疲労に押しつぶされてしまう前に、さっさと楽屋をでてしまうのだが、今日は珍しく、本当に珍しく、そんな気分にならなかった。当たり前のように体が疲労の餌食になっている。しまった、これでは戻れなくなってしまう。歌って踊って、その後に、来てくれたお客さんと会話をする。それが自分の、仕事。自分で選んだ、仕事なのに。


隣に人間が座る。この人はこの時間を、いつもどうやって過ごしているのだろう。
一切の光も差していないその目は、舞台に立っていたときの、零れ落ちそうなほどの光を湛えたあの目ではなくて、この人が今ありのままの姿でいることが、よく分かった。自分はこの人と同じ立場で、この人に対して何か幻想を抱いているわけではないはずなのに、それでもこの姿を目の当たりにすると、なんだかたじろいでしまう。居心地の悪さを感じ、仕方なく立ち上がろうとした、その時。
「昨日さ、変なこと言われたんだよね、変な人に」
目線は下に向けたまま、舞台に立った時とは違う声で、そう言った。
「変な人?ファンの人?」
平坦なトーンで言葉を返す。
「うーん、分かんなくて、なんか急に来た人なんだけど」
「ふーん。それで何言われたの?変なことって」
「神様みたいな仕事だって言われた。今やってる、これが」
「神様」
「うん」
横に座ったその人は、目線をこちらに向けて、困ったような顔で話し出す。
「最初はなんだそれって思ったんだけど、それだけだったんだけど、時間が経ってからなんだか妙に気になっちゃって。家に帰ってからも、寝る前とかも、考えちゃってさ。神様かーって。ほら、7人だから、あれが思い浮かんだりもして」
「あれ?」
「七福神。7人じゃん?」
「あー、なるほどね」
今にも眠ってしまいそうな、ぽやぽやとした表情のままその人は、スマホの画面をなでる。そしてそれを、こちらに傾けて見せた。
「七福神って、よく知らないけど、調べたらみんなそれぞれ役割?というか御利益?が違うみたい」
話の目的が掴めない。だからただ、ふーん、とだけ返した。
「それでね、思ったんだけど。この神様、似てる」
「毘沙門天」について詳細に説明されているサイトを開いて、こちらに目線を向ける、その人。
促されるままに文章を読む。へえ。眉間に深い皺を寄せたその神は、たしかに少し自分と気が合いそうな気がした。
「たしかに、分かんなくもないかも」
そう言うと、その人の目に少しだけ光が戻った。
「ね、ね。じゃあさ、自分はどれかな」
何かを焦っているようにそう問いかけられる。七福神なんて詳しく知らないけど、舞台に立つその人の姿には前々から浮かび上がるイメージがあった。それをふと思い出す。
「ほてい、じゃない?」
そのまま口に出してみた。言ってから、自分のスマホで「ほてい」を調べる。見ているこちらまで笑顔になってしまうようなその表情は、確かに舞台の上のその人を彷彿とさせた。溢れる愛嬌とその中に見え隠れする知性が、「ほてい」であり、その人だった。
「やっぱりね、そう言われると思った。7人の中だったらきっとそうだろうなって」
嬉しいのか悲しいのか分からない調子でそう言う。この人は何を考えているのだろう。
だいたい神様だなんて、最近この世界を知った夢見がちなその客の、戯言にすぎないじゃないか。それを、なぜそんなに気にしているのか。神様じゃないことなんて、自分が一番分かっているだろうに。自分の荒んだ思考に嫌気がさす。ふと落ちる沈黙。話しかけたのだから、責任もってこの場を終わらせてくれ。そう思った自分にまた嫌気がさす。
すると、その人は、目線を斜め上で彷徨わせながら、ゆっくり時間をかけて言葉を並べた。
「神様になりたかったんだけどね」
「誰かの、神様にさ」
「代えがきかない、たったひとりの神様に」
神様になりたかった。
その言葉を聞いた瞬間、心臓がなくなってしまったような感じがした。
自分の存在が、誰かの道しるべになればいい。誰かの活力になればいい。自分の歌や踊りが、誰かの元気や勇気になればいい。そう願うことがいつしか、恥ずかしくてくだらないことのように思えていた。それなのに、いつまでも願ってやまない自分を、滑稽に感じていた。強く信じれば信じるほど、勝手にぼろぼろになっていく信者たちの姿を見ながら、これでは自分は同じ“神“でも”死神“のほうだと、自嘲気味に思うのだ。だけど自分は、壊れていく信者たちを見ていることしかできない。なぜなら自分は、神様じゃなくて、ただの人間だから。人間だから、生きなければならない。
「チョコのごみひとつ見過ごせない人間は、神様にはなれない」
思いの外深刻な雰囲気を纏ってしまったその言葉をごまかすように、そろそろ行かなきゃね、とわざと楽しげにそう言った。すると、隣に座る「ほてい」はこちらに目を向けて瞬きを2回した。
その目には、眩い光が戻っていた。
「昨日のあの人、また来てくれるといいなっ!」
その人は、見ているこちらまで笑顔になってしまうような表情でそう言うと、立ち上がって楽屋を後にした。
ふと、眉間に皺を寄せてみる。ひとりでなにをやっているのだとおかしくなり、少し、笑った。

                   
         

                                     👼


「神様みたいなお仕事だと思います」
そう言ったあの人は結局、あれ以来一度も現れなかった。
神様だなんて、初めから思ってないじゃん。やけくそのように呟いてみても、その声は音楽に埋もれて消えてしまった。
今日も舞台の上に立っている。偽物の「ほてい」の顔をして。
もし彼が、今この空間を天から眺めていたとしたら、一体どう思うだろうか。私はそんなもんじゃない、ふざけんなと怒るだろうか。
怒られたくないから、媚び売っとこう。
なんとなく神様がいそうな真上を見上げて、精一杯の笑みを浮かべた。
「……?」
不思議な声が聞こえた気がしたが、そんなはずはないので、ここ最近の寝不足のせいにした。


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