中根すあまの脳みその216

卵を割るという行為は、極めてプライベートなものである。
私は10時間労働のうちの貴重な1時間の平穏を、コンビニで買ったサラダとゆで卵を食すことに費やそうとしていた。
湿気た献立だ。でもどうだろう、もう既に6時間の労働を終えた今、それはとてつもないご馳走のように見える。
さあ、食べよう。
ゆっくり息をついていては、この平穏はみるみるうちに溶けてしまう。
私はてきぱきとサラダのパッケージを開け、ドレッシングをかける。そして、たったひとつのゆで卵のために存在している厳重なプラスチックの容器を強引に引き裂き、中身を取り出した。
そこではたと気づく。
ああ、そっか、殻をね。
殻、剥かなきゃいけないよね。
コンビニのゆで卵は殻付きの状態で売られている。それなのに、卵にしっかりと塩味がついているから不思議なのだ。こんなに硬い立派な殻におおわれた状態で、なぜ味がつくのか。私は長年、その事実に疑念を抱きつつも、深く掘り下げたらなにか世界の闇のようなものを見てしまうような気がして、思考停止を貫いている。嗚呼、情けない。しかし、私の人生はコンビニのゆで卵の真相を暴くことによって台無しにされては困るのだ。
殻を取り除くためにはまず、殻にヒビを入れなければならない。
卵を、割らなければならない。
…ここで?
商業ビルのバックヤードにある休憩室。
独特の白々しい沈黙が絶えず流れ続けるこの場所で、私は卵を割らなければならないのか。
それは極めて異質な行動のように思えた。
こんこん、と音を立てて卵を割ること、
それは、家のキッチンでのみ許される、プライベートな行為であると、全身にビシビシと突き刺さる違和感が、そう伝えていた。
家庭の匂いがしすぎているのだ。
しかし、まあ、
それをしない事には私はこのゆで卵を食べることができない。
当たり前だが。
私はひと思いに卵を持った手を振り上げ、机に叩きつけた。
こんこん!!!!!
思っていた以上に大きな音が休憩室中に響き渡る。白々しい静寂が、卵を割るその音によって断ち切られる。そして、また、新しい静寂が流れはじめた。
そこに集う人々の確固たる意志によって形作られた静寂は、卵を割る音の間抜けな響きくらいでは、揺らがないらしい。
ふと手元を見ると、人差し指から赤い血が流れている。
卵を割るその手に生じていた少しの逡巡が、卵の殻と人差し指の間でちょっとした事故を起こしていたらしい。
その血は卵そのものにも付着しており、まるで、うすくケチャップがついたようになっていた。
血の味ゆで卵。
そんなことを脳裏に浮かべたあとで、ああそうか、もうすぐハロウィンだなと、何をするでもないイベントのことを思った。

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