中根すあまの脳みその161

空気が甘い。
そう、金木犀の仕業だ。
頬を撫ぜる風がいくらか穏やかになり、夏が去ったことを認めざるを得なくなったここ最近。あれだけ夏が終わることを拒否していた私の心だったが、単純なもので、高い青空と、深呼吸したときに濃く感じられる金木犀の香りに、そういえば秋も悪くなかったと、毎年同じように思い出すのである。

金木犀については2020年10月2日にここで取り上げていた。改めて読み返すと、今とはまた違った感覚で綴られていることがわかる。
あの頃の私は、100パーセント、純粋な気持ちで金木犀を評価していたが、今は違う。
金木犀を評価する気持ちの中に、いくらかの"屈辱"と"疑念"が混じっており、橙色の小さな花が発する芳しい空気を吸い込む度に、複雑な心境になるのだ。

金木犀はここ数年でさらに、若い世代からの支持を得るようになったと認識している。もちろん、その甘い香りは、金木犀が昔むかし隣の国から伝わってきたときから、日本人に深く愛されてきただろうが、自然を慈しむことより10秒間の短い動画をひたすら見ることのほうに興味を示すだろう、現代の若者にとってそれは、あまり魅力的なコンテンツでないように思われる。
しかし金木犀は近頃、若者の"エモい"の対象として認知され始め、若き才能を眠らせたクリエイターたちが手がける作品、それは歌詞であったり、イラストであったり、文章であったり、様々なジャンルの間で用いられることが増えてきた。若者の"エモい"カルチャーに金木犀が仲間入りしそうなのである。例えばそれは、コインランドリーであったり、深夜に恋人と出かけるコンビニであったり、古き良き喫茶店で振る舞われるクリームソーダであったり、そういった、どこか特別で非日常感の漂うモチーフたちと、同等に扱われる傾向があるのだ。
誤解のないように、早いうちに言っておくが、私もこの"エモい"の住人である。決してそれ自体を批判しているわけではない。むしろ私は"エモい"という言葉には肯定的で、えも言われぬ感情の昂りを、熱量を持って表現できる魔法のような言葉であると認識しているのだが、それ故に、私じゃない人間が、私より先に、私がずっと可能性を感じ続けてきた「金木犀」という魅力的なモチーフを、"エモい"のカテゴリに入れてしまったのが、悔しいのだ。私がその役割を担いたかった。私が、私のつくりだす作品をもって、それを人々に伝えたかったのだ。
「金木犀の香りが〜」そんな歌詞の曲をきこうものなら、作詞者が私でないことに対する屈辱的な思いに苛まれ、素直な気持ちで金木犀を慈しむことができなくなってしまう。
面倒臭い人間だ。

最近では、金木犀の香りのするフレグランスなども多く販売されている。ずっとあるにはあったが、期間限定の人気商品として売り出されるようになったのはここ数年のことであるように思う。あの香りを手軽に身に纏えるのだ。本来であれば、片っ端から手に入れたいところだが、それはどうしても憚られる。だって、唯一無二のあの香りが、その商品を買った人の体から、いとも簡単に発することができてしまえば、金木犀のもつ特別で非日常な魅力は激減してしまうではないか。
人工的に金木犀の香りをつくりだし、それを量産、拡散することは、金木犀独自の世界観の破壊につながる。従って私は、金木犀商戦に対して、疑念を持ち続けている。
これまた面倒臭い人間だと思う。

ドアを開け、外に出た瞬間に甘い香りに包まれる。木の位置が特定できなくても、どこからともなく漂ってくるその香り。
一体どれくらいの金木犀が、日本に存在しているのだろうかと不思議に思う。
金木犀の木は、風水的にも良い意味を持つという。そう、日本人は、金木犀が大好きなのだ、昔から。
今よりも少し、素直な心でその芳しい香りを楽しむことができていた2年前の自分へ。深呼吸してその甘い空気を取り込みながら、思いを馳せる、秋の日の今日である。


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