中根すあまの脳みその168

東急東横線に乗る、夕方17時過ぎ。
帰宅ラッシュ直前。嵐の前の静けさといった具合である。
座席の中央、僅かな隙間に体をねじ込むと、やむを得ず目に入る正面の乗客。

男の子だ。
この上なく上品な濃紺の制服に身を包んでいる。大きなマスクで顔面を覆っているため、小学生なのか、幼さの残る中学生なのか、はたまた童顔な高校生なのか、断言することは出来ない。しかし、不織布からはみ出したつやつやの白い肌と生意気そうな視線に代表される彼の印象からすると、小学生である可能性が高そうだ。
都会のこどもっちゅうのは上品なんもんで〜
私は座席に腰を落ち着かせながら、そんな事を思う。1人で電車に乗ることなど夢にも思わなかった我が子ども時代を思い出す。全く違う生き物のように感じられる。

本を開く。
電車に揺られながら本を読んでいると、そこが電車であることを忘れてしまうことが往々としてあるが、その日は違った。目の前の少年が特殊な存在感を放っていたからだ。
上品な彼は上品な仕草でリュックを探り、中から何かを取りだした。思わず視線を彷徨わせる。するとそれが、カップのアイスクリームであることが分かった。見覚えはあるが馴染みはないそのパッケージはいかにも、ハーゲンダッツであった。高いやつ。ハーゲンダッツ。
それをどうするのかと暫く気にしていると、彼は平然とカップの蓋を明け、コンビニやスーパーなどでもらえるプラスチックのスプーンでそれを食べ始めた。
圧倒された。
よくわからんが、圧倒された。
モラル上問題があるのは間違いないが、
ここで問いたいのは、電車でなにかを食すという行為に対する是非でははなく、
「電車でハーゲンダッツを食らう」様子を目にした時に私が感じたこの、特別な衝撃の正体について、である。
彼はアイスをひとくち口に運ぶと、すぐさまマスクを引き上げた。その繰り返しである。
その秩序と常識に満ちた態度がまた、私の頭をややこしくさせた。

「小学生が電車でアイスクリームを食べる」
可愛らしい状況である。我慢出来なかったのかなあ?などと、にこにこしながら声をかけてしまいそうである。しまわないが。

「仕事帰りのサラリーマンが電車でハーゲンダッツを食べる」
よろしくない状況ではあるが、ついつい労いたくなる。どう考えてもそれは彼にとって特別なご褒美である。いつもは妻と子どもが寝静まったあとに帰宅し、100円のスーパーカップをちびちびと舐めることを1日のたのしみとしているが、その日は違ったのだろう。なにか良いことがあったのか、はたまたその逆か。
電車の性質上、この場合にもまた、”家まで我慢出来なかった”という緊急性が加えられ、その背徳感が強調される。

では、「小学生が電車でハーゲンダッツを食べる」はどうだろうか。
幼さと、やるせなさ。可愛らしさと、だらしなさ。相反する形容詞が浮かんでは消える。
彼の目がきらきらと輝いていればまた、違ったのがもしれない。彼の目に光はなく、宝物であるハーゲンダッツを受け入れすぎている気がした。

そういえば、1年間の節約の成果だと言って、年末の給食にハーゲンダッツが登場したことがあったと、そんなことを思い出した。

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