中根すあまの脳みその264

突如真っ暗になるリビング。
何事かと視線を彷徨わせれば、電気のスイッチに手を伸ばす母親。4つのそれが連なるその場所で平然と立ち尽くす彼女。
22時をすぎ、煌々と輝きを放つ白い光をいくつか消し、やわらかなオレンジの光だけにしていたリビング。その残されたひとつの光を、彼女は誤って消してしまったらしい。
なんの予兆もなく真っ暗になることが、ある一種の可笑しみを生み出すことなど知る由もなかった私と妹は、その光景に思わず笑いを零す。零した笑いは、電気を消した張本人の笑いによって増幅し、増幅し、俗に言う”ツボる”の状況をつくりだした。
母親はそれを夜中のテンションだと形容したが、そうだとしたら、人の過ごす夜はたくさんの可笑しみの気配を孕んでいる。

理由も分からず笑いが込み上げてくる瞬間ほど、癒し、や、幸せに近い時間はないと思う。
笑うときには笑う理由を、頭で理解できていないと上手く笑えない、私は。
さて、今のこれが、
笑うという感情の発露に相応しい事象なのか、無意識のうちにジャッジしていて、そうではないという判決が下ったのに、様々な要因により笑うという選択をしなければならないとき、頬の筋肉は痛むくらいに引き攣り、不自然な表情をつくりだす。
嫌いだ。その不自然な表情が、私は。

考える間もなく口角が上がったとき、
その口角の理由をゆっくりと紐解く時間が好きだ。
ああ、だから、可笑しかったのか。
それに気づいてゆく時間の愛おしさ。
忙しない時間の流れを生きていると、己の感情の理由すらも分からない。
好きや嫌い。
嬉しいや悲しい。
ひとつひとつを噛み締めて生きていたいのに。

最近気づいたのは、己の心の中に眠る、”家族”への憧れ。
私にとってそれが、理由のない感情を生み出してくれる唯一無二の存在で、だからこそそれを、なにもないところからつくりあげたいという気持ちがある。
程遠い生き方をしているなあ、とも思う。
ただ、それを思うとき私はとても幸せなのだ。

言葉だけが達者な自分が嫌い。
綺麗な言葉を語る楽しみはほどほどに、中身をぱんぱんに詰める。
そんな秋に。

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