中根すあまの脳みその246

携帯電話が壊れた。
半年前くらいから瀕死の状態にあったのを、見て見ぬふりしていたツケが回ってきたのだ。
少しばかり込み入った内容の返信を怯えながら待っていたある晩、もういっそこんなものがなければと、ソファーにそれを投げ出した次の朝から電波が入らなくなった。
近所の修理屋に行く。
眼鏡とスーツをお手本のように着こなした店員がなんの躊躇いもなく繰り出す専門用語に首を傾げながら、もう3年弱片時も離れることなく連れ添った相棒の症状を伝える。
作業をするので2時間後にまた来てくれと言う。
さてどうしたものか。
適当に歩きながら私は、携帯を持っていない状態の現代人がどれだけ非力かということを徐々に悟っていく。それと同時に、こんなにも自由な時間はいつぶりかと、愕然とする。
なにもできないのではない、なにをしても良いのだ。
思えば、携帯電話を持ち歩いている時間はいつだって他人の存在が近くにあった。いつでも誰でも、私の時間に介入できるのだ。もはやそれが当たり前すぎて気に留めたこともなかったが、私は数年ぶりにこうして私とふたりきりになれたのだ。
そう思うと、この自由を手放したくなくて、とことん味わいたくて、私は2時間、ただただ景色を見て過ごすことにした。

まるで嘘だったかのようにその時間は過ぎ、私は相棒を引き取りに行く。
目の前で電源を付けられた瞬間、電波の滞りによって溜まっていたメッセージたちが一斉に通知される。その中には、例の込み入った内容のものもあった。
動作確認をしてください、眼鏡の店員が言う。
はい、とかなんとか言いながら、隙を見てメッセージを開く。
その内容が脳内に伝達するより早く、超特急で駆け抜けた後悔。
携帯が治らなければ、私はこれを見なくてすんだ。
ぐらぐらと崩れていく何かを必死で立て直すように、余計な口をきく。
眼鏡の店員に。
すると彼は、治らなければ良かったですね、と苦笑し、それから、
機械は治らないこともありますが、人間は時間が経てば治りますから。
と、さらっとドラマチックなことを言ってのけた。
なんだそれ、ちょっと羨ましいぞ。
謎の嫉妬と、彼の残した言葉の奇妙な余韻に、崩れかけていた何かをどうにか支えきり、浮ついたままで歩き出す。

酒を飲んで、眠る。
幾分か素直になった脳みそはそのままの感情を引き出し、私は過去の失敗に囚われる。
血を吐くように後悔をして、吐いた血で、その失敗の名を丁寧に刻む。その横に倒れて、新しい朝を迎えるのだ。まるで、ダイイングメッセージのように。
起きたわたしは、馬鹿みたいに真面目な顔をして、血で書いた文字を律儀に消してゆく。
犯人なんてわかっているから、もう、やめようって、そう思いながら。
こんな狂ったルーティンはいらない。

治ったはずの携帯がまた、沈黙を貫いている。
ため息をつくと同時に、どこか安堵のようなものを胸の中に感じた。
眼鏡の店員に再会の挨拶をして、私はまた、自由の海へと身を沈めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?