中根すあまの脳みその132

数日前、テレビは煩く、雪の予報を叫んでいた。それも”警報級”の大雪だという。これまで生きてきて”警報級”などという言葉は聞いたことがなかったような気がする。それが一体どれくらいの脅威をもたらすと予想されたものなのか、いまいち想像ができない。
違和感の正体は、”警報級”という言葉の耳馴染みの悪さだけではない。実感がないのだ。数時間後に雪が降るという実感が。しんと静まり返った、深く、透き通った寒さが、雪が降ることを教えてくれるあの寒さが、訪れていないのだ。暑がりの私は、数日前から、室内や電車の中で汗ばむことを懸念して洋服の中にヒートテックを着ることをやめてしまっていた。それくらいに、日中の陽の光はあたたかく、春を思わせるほどだった。そんなときに訪れた雪の知らせを、私は、うまく受け止めることができなかった。
先刻、春を思わせる、と書いたが、ここ数年で季節というのは徐々に影を薄くしているように感じる。日本という国には美しい四季の流れがあって、それを感じながら1年を過ごすことが当たり前になっていたが、地球温暖化と地球寒冷化が同時に進むなどという、まるでサッカーボールが空を飛ぶ少年漫画のように無理やりな我が星の暴走によって、夏と冬の境目はじりじりとその距離を狭めている。
納得のいかない雪の知らせから派生してそんなことを考えていた私は、ふと、あることに気づく。”季節”という概念があるから、違和感を感じるのだ、と。生まれた時から季節があったから、幼稚園でその存在を教えられたから、小学校でそれぞれの季節に合った行事に参加していたから、春夏秋冬その順番通りに季節が巡らないといけないのだ。初めから”季節”なんて存在しなければ、今日は夏日で明日が大雪でも、ちっともおかしくない。きっと人々はその両方に対応できるよう、タンスの中に夏服と冬服を常備しているだろう。そっちのほうが人間は、生き物として強くなれそうだ。
警報級の大雪が降るはずだった日の朝、いつものニュース番組にチャンネルを合わせると、「8センチの大雪、降らない」と、テロップが出ていた。いや、
そんなことは知ってるよ。
外に出ると、道の端っこに辛うじて、申し訳程度に雪の姿が見られたが、警報級にも、8センチにも程遠く、不思議と愉快な気持ちになった。今年は、真夏に雪の予報があるかもしれない、そんなことを考える。

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