中根すあまの脳みその252

私の母親は、かれこれもう何年も、某有名海外ドラマの虜である。生ける屍の総称、ゾンビと呼ばれるそれが現れては脳天を突かれ、現れては脳天を突かれてゆく、かの有名なドラマだ。
しかし、その実、作品の中で描かれるのは実はゾンビではない。ゾンビという存在を通して浮かび上がる、人間という生き物の本質を描いているのだ。
シーズン3でもはや、ゾンビなどどうでもよくなってくる。むしろ、ゾンビが邪魔になってくる。もう、ゾンビいいから、という気持ちになってくる。気づいた頃にはもう、長いシリーズの中で成長していくキャラクターたちに魅了されているのだ。しかしまあ、ゾンビなくしてその成長はないのだから、先程のゾンビの存在を軽んじる発言は、訂正してお詫びする、ゾンビに。

とはいえ、私はすべてのシリーズを見届けることなく今に至る。飽きることなく2周目に突入した母親と並んで熱心にみていたのだが、途中でひとつ、飛び抜けてお気に入りのエピソードと出会い、それで満足してしまった。この話は、まるで短編映画のように、それだけで満ち足りている。そう興奮気味に語るうちに、なんだか物語の続きに興味がなくなってしまった。それからはもう、そのエピソードだけ何度も見続けている。飽きっぽくせっかちで、ひとつの事を継続することに、得体の知れない恐怖を感じる私には、人気海外ドラマはあまりにも長すぎた。

それに対して、母親の集中力は凄かった。
コロナ禍の自粛期間、なにかに(たぶんゾンビ)に取り憑かれた(ゾンビは別に取り憑きはしないか)かのようにテレビにかじりつき、薄暗い部屋の中でそれだけを見続けていた。ぐちゃぐちゃになった頭部を、その目がひたすらに映し続けていたと思うと、軽く狂気である。
そして、今年になって、その熱は復活し今もなお、熱心にゾンビに脅かされたアメリカの街並みを眺め続けている。
よくもまあ、飽きないものかと感心していると、テレビに向けていた目をこちらに向けて、彼女は、
ゾンビなんて、みてたってしょうがないのに。
と言って、テレビを消した。

あまりのことに言葉を失う。
そんなことを言ってしまったら、あなたがゾンビに費やした膨大な時間がすべて、なかったことになってしまうぞ。
そんな根本的なことを言ってしまって…!
言ってしまっていいのか…!
そんな、元も子もない…!

彼女の手には、もう何本目かの缶チューハイ。
無論、空である。
衝撃的なその発言が、酒のせいだとわかっていつつ、私は笑いを噛み殺しつつ、携帯のメモにそれを記すのである。

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