かみさま

「おそいのねえ。今、帰り?」
ドアの横にもたれて立っていたおばあさんが僕の目をじっと見つめながら話しかける。
時刻は7時、いつもと同じ帰りの電車。携帯の充電がなくなりそうだったので、ぼーっとしていたところだった。
無視するのも忍びなく、曖昧に頷く。
「大変ねえ。部活?勉強?」
「部活です」
素直に答えた。今日は大変な日だった。部員同士の小さな争いごとが発展して、最終的には退部者を5人も出してしまうような事態になった。僕はただただ音楽が好きで、憧れのサックスをうまく吹けるようになりたいという気持ちだけで吹奏楽部に入ったので、部員同士のいさかいほど邪魔でうっとうしいことはない。
「遅くまでやるのねえ」
「…は、はい」
それにしてもなんだこの人は。帰宅ラッシュでたくさん人がいる電車の中でこんなに堂々と絡まれては、なんだか僕が恥ずかしいじゃないか。
困惑と、少しの苛立ち。だが、感情に反して僕は笑顔を崩さないでいる。
僕はいつもそうだった。今日だって、心底どうでもいいことで争う部員たちを疎ましく思いながらもへらへらと気の抜けた表情をしていた。
それは僕が、人を傷つけたり、誰かに嫌われたりすることを極度に恐れているからだ。
「高校生よね。何年生?」
「に、2年です」
「高校は?」
「玉田駅の近くなんですけど…」
「あー、知ってるわ。頭がいいところね」
「そんなことは…。はは」
「何の部活をやっているの?」
「…吹奏楽部を」
「あら素敵じゃない。楽器のできる男の子なんて」
「そ、そ…。あはは」
おいおい、こんなに個人情報をつらつらとならべていいのか。
しょうがない。僕にはこのおばあさんを無視するだけの自信と度胸は持ち合わせていないのだから。
こんなことなら次の電車に乗ればよかったと後悔しているとしていると、先ほどまでとは違う、なんとも落ち着いたトーンで彼女が言う。
「人は、中身が大切なのよ」
「へ…へ?」
あまりにも突然な言葉と、不思議な色をした瞳に、思わず間抜けなリアクションをとってしまった。
「人は、中身が大切なの」
「はあ」
「わたしは、クリスチャンで、牧師をしているのだけど、」
そう言って、キリスト教の基礎的な知識を披露し始めた彼女に、僕はひとり納得する。
なーんだ、そういう人だったのか。家に聖書を売りに来る謎のおばちゃんと同じ類のやつか。
それなら僕に話しかけてきたことにも頷けるし、突拍子もないことを言い出したのもわかる。
僕は神様も仏様もあまり信じてはいなかったが、完全にいないとも言い切れない、都合の良い無神論者だった。僕だけではなく、日本にはそういう人が多いと、社会の授業で聞いたことがある。
現実離れした神話はリアルじゃないと思うが、そういった存在がまったくないのはなんだか心もとない、そんな感じだ。
「聖書。聖書は素晴らしいの。読めば誰だって天才になれるのだから」
頭の中で宗教に関する持論を展開していたら、おばあさんの講義はいつの間にか聖書の話にシフトチェンジしていた。
どこまでも信じてやまないといった表情の彼女を見て、ここまできっぱりと信じ続けられる何かがあれば、きっと不安になることもなく、苦しみ悩むこともなく、安定した気持ちで生きることができるのかもしれないなと、そんなことを思った。
絶え間なくつづくおばあさんのマシンガントークに、意識が飛びかけていたその時、突然両手首に違和感を感じた。
おばあさんが僕の手首をつかんでいたのだ。どこか光のない、不思議な色をした瞳は、僕の姿をじっと捉えている。
「いやなことがあるでしょう。いやなひとがいるでしょう。あなたもきっと」
その言葉を聞いた瞬間、僕はそのおばあさんをずっと昔から知っていたような気がしてきた。
いやだった。どうでもいいことばかり気にして、練習を疎かにする部員たちが。やらねばいけないことを後回しにしていたのは己自身なのに、後になって泣きついてくる彼らが、自分の非を認めず、簡単に人のせいにする彼らが、周りの人の力に頼り、成功というおいしいところだけを味わう彼らが、きらいだった。
現実を見つめ、足りないところを減らそうと努力することが、とんでもなくばかげたことのように思えるからだ。
でも僕は、口角をつりあげて黙っていることしかできなかった。本当は、彼らに制裁を与えてやりたいのに。
「でもね、いつでもだれにでも、やさしさ、笑顔を貫くのですよ」
思わず僕は口を開く。
「でもっ、そんなのぼくがずっとつらいだけじゃ、」
ふふ。おばあさんは微笑えむ。
「いいですか。あなたの手は汚れてはいけません。いかなる理由があっても。だからやさしくするのです。大丈夫、復讐は、神様がしてくれますから。必ずね」
そんなことはない、そんなに簡単なことではない、僕の脳みそはとっさにそう考えたが、不思議と心は軽く、先ほどまでとはまるで違う気分になっていた。
僕のしてきたことは決して間違いではない、そう思えた。
「ありがとうございます」
そう伝えると、おばあさんは花が咲いたように笑った、

ように見えたが、その表情は徐々に歪んでいく。
見る見るうちに赤く染まっていく彼女のからだ、車内に響きわたる悲鳴、そしてひとこと、
「かみさま」
と言って力尽きてしゃがみ込んだ。目の色は不思議なままだった。



時刻は8時、いつもの通学電車。
目の前に座るおじさんの新聞が目に入る。一面には、でかでかとした見出しで、
「電車内殺人 被害者は指名手配犯」とあった。
僕はその記事をおじさんに見つからないようにこっそりと盗み見る。
そして僕は神様を信じることを決めた。





『はい。10年前に彼女に息子を殺されました。通り魔です。息子は偶然そこにいたから殺されたのです。…でもよかった。やっぱり神様っているんですね。復讐してくれた神様に感謝したいです』

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