中根すあまの脳みその247
幼い頃、いちごが食べられなかった。
大人になった今でも、好んで食べることはないのだが。
いちごの味が苦手だとわかっていて、怯えながら口に運んだいちご味の飴が、本物のいちごとは違ったものに感じたとき、私は、架空の味、フィクションの味が存在することを知った。ソーダ味のアイスなんかもそうだ。あの味のソーダなんてない。あの味のソーダが飲みたいのに。得体の知れない歯痒さがある。
マスカット味が好きだった。
フルーツが食卓に並ぶことがあまりない家庭で育ったわたしは、しかし、本物のマスカットを食べたことがなかった。どうせマスカットもフィクションの味だと思って、まるっきり信用せずに口に放り込んだ黄緑色のひとつぶ。それはマスカット味だった。マスカット味のマスカットにわたしはえらく感動した。
フィクションでしかあり得ないと思っていたことが、実はノンフィクションだったと知るとき、人は感動するのだろう。
本当にあの味になるのか、と首を傾げながら混ぜ合わせる調味料。
ケチャップ、豆板醤、塩、砂糖、ごま油、醤油、水。
フライパンの上で、油を纏って輝く海老たちに勢いよく浴びせれば、おなじみの姿になる。しかし、味までもがおなじみのそれになっている気がしない。まるっきり信用せずに熱々を頬張る。そして、わたしはまたもや感動するのだ。
なにも味だけの話ではない。
たとえばそれは、夜空で瞬く星を見たとき。
星座なんて絵空事を、己の両の目で認めたとき。
ああ、マジだったんだと、大真面目に感動する。
たとえばそれは、なにかの出来事で胸を痛めたとき。
心臓ではない、心の場所がよくわかる。
転んで膝を擦り剥いたときと同じように、変なものを食べて腹を壊したときと同じように、
ちゃんと実体を持った痛みがそこにはある。
比喩ではないのだ。その事実に、胸を押さえながら感動する。
そもそも、ノンフィクションをもとに作られたフィクションだから、当たり前だと言ってしまえばそれまでだろう。
しかし、私たちの日常というのはそれだけ奇妙なものなのだ。
説明のつかないあれこれに彩られてできている、そういう世界なのだ。
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