中根すあまの脳みその77

日常の中で突然、なんの予兆もなく、得体の知れない“違和感”のようなものを感じることがある。

それは例えば、友人と話しているとき、相手の顔を見ながら、「この人は私と一緒にて楽しいのだろうか」となんとなく考えてしまうことから始まる。一度考え始めるとその思考から抜け出せない。私は思う。そもそもこの人との出会いは、たまたま教室で席が隣だった、というだけであり、あのとき私が他の席に座っていればこの関係は始まらなかった。この人は、私の持つ何かしらの要素に惹かれ、私を選んでくれたのではなく、偶然となりにいたから話しかけた、というだけだ。
では、この人はそんな私と時間を共にして、なにか得することがあるのだろうか。どうしてもないように思える。それなら、目の前にいるこの人にすらなにも与えられない私には今、存在している価値はあるのだろうか。ないような気がする。思えば、全ての事柄がそうだ。私の人生の中で出会う出来事はすべて、偶然の産物であり、別に私が私でなくても、起こりえた事である。
ここまで思考が達すると、私は途端に会話がしづらくなる。今、私の目の前にいる人間に、楽しい時間を提供しなければならない、でなければ私がここに存在している意味はなくなってしまう、そう考えるからだ。発する言葉ひとつひとつに責任がのしかかる。

なにか落ち込むことがあって自分に自信が持てず、ネガティブな感情にとらわれているとか
、そういうわけではないのだ(もちろんそういうこともあるが)。私は家族や周りの人々に恵まれ、自分の容姿や性格について多少のコンプレックスはあれど、それについて強く悩み苦しむこともなく、それなりに満たされた生活を送っている。それなのに、他人と過ごす時間にはいつも、この思考がついてまわる。

この違和感を感じるとき、いつも感じるのは、そもそも私という存在自体が曖昧で不確かなものだということだ。世界に対して何か影響をもたらすこともなく、多くの人々の心を揺るがすような強烈な特技があるわけでもない私は、果たしてこの世に存在していると言い切ることができるのだろうか。一般的に「個性」だと認識されているようなことは、元を辿っていくと、誰かの、もしくは何かの真似にすぎない。本物の個性を手に入れるためにはきっと、莫大な労力と時間がひつようだろう。私にはもちろん、そのようなものはない。

私は日々とても焦っている。それは、自分の存在を確信するためには多くのやるべきこと、考えるべきことがあって、それを未熟で無能な私が成し遂げるには非常に多くの時間を必要とするするからだ。昼寝の時間も確保したい(昼寝は人生を豊かにする)私の場合はとくに、だ。
いつか、目の前にいる人間が、運命に従ったわけではなく、私の存在を認め、選んで、ここにいるのだと、自然にそう思えるときが来るのだろうか。

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