中根すあまの脳みその83

晴れた昼下がり、静かなベッドで昼寝をすることこそが、私にとって最上級の幸せである。
もちろん、やらねばいけないことは既に済ませていて、なんの心の引っかかりもない状態での、昼寝である。
人々はせかせかと働いているのに、私だけが時の流れを止め、白昼夢の世界に身を委ねるのだ。「ふとん」という名の優越感が私をどこまでも優しく包み込む。まさに、至福。
食事の時間にも大きな幸せを感じるが、食べることすなわち、肥えること。幸福と絶望が直結する、極めてリスクの高い行為であることは否めない。スリリングな幸せもそれはそれで魅力的ではあるが、それならば、心穏やかにその時間を満喫できる昼寝の方が、真の幸福としては相応しいだろう。

だが、お騒がせウイルスが我々の生活を邪魔するようになってからというものの、私はこの至福のひとときを日常的に楽しめるようになってしまった。私はまだ売れっ子芸人ではないため、終日動き回るのは週に1、2日程度。学校の授業や課題は基本的に画面の中で完結してしまうので、朝から晩まで時間を要することはないし、個人的に取り組んでいることは、自分で勝手に時間を調節できる。つまり、最も充実度の高い午後2時から3時頃の昼寝を、毎日のように楽しめるのだ。初めのうちは、その事実がとても嬉しかった。頑張って頑張ってやっと手に入れることができる宝物が、そこら中に転がっているような感覚だ。世の中の様子をみるとそれはあまり良いことではないのだが、そう分かっていても高鳴る鼓動を抑えきれなかった。
だが、人間は適応能力が極めて高い生き物で、すぐにその環境にも慣れてしまう。昼寝という最上級の幸せを毎日、当たり前のように得ることによって、それは”最上級”の幸せではなくなってしまう。希少価値があるからこそ大切にしていたのであって、簡単に手に入れられるようでは、それはただの日常だ。徐々に、幸せに慣れてしまう。すると今度は罪悪感が生まれる。私は、あんなにも大切にしていた至福のひとときを、日常にしてしまっている。こんなに簡単に幸せを感じいていいのだろうか。もがき苦しんだ先にある”至福”だからこそ、それは”至福”なのではないだろうか。

人間とは、悲しい生き物である。
喉から手が出るほどに欲していたものなのに、簡単に手に入るとなると、それに価値を見出すことができない。
あんなに、もういらないとため息をついていた、忙しない日々が、きらきらと輝いてみえる。しかし、また日々が動きだしたところで、今のこの懈怠で満ち溢れた生活を恋しく思うのだ。
きっと、心から満たされる日々など来ない。そんな後ろ向きな結論にたどり着いたとき、私はひとり静かにベッドに寝転び、思考を停止させる。仕方ない、人間なのだから。

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